恩人・馬場さんの死 「ふるさと」全日への復帰決断
元プロレスラー、天龍源一郎氏(12)
約10年ぶりに全日本プロレスのリングに上り馬場元子オーナー(右)と握手をかわす(2000年7月2日、後楽園ホール)=東京スポーツ新聞社提供
「昭和のプロレス」を体現した人気レスラーで、65歳まで現役でリングに立ち続けた天龍源一郎氏の「仕事人秘録」。プロレス界に誘ってくれたジャイアント馬場の死去と一本の電話で、全日本プロレスへの復帰を決断します。
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1998年からフリーになり、新日本プロレスに再び参戦する。そんな中の99年、恩人のジャイアント馬場が死去した。
WARは興行が思わしくなく、僕の嶋田家の財産から給料も払っていました。そのうち嶋田家の屋台骨が揺らぎそうになりWARは閉め、98年からフリーになり再び新日本のリングに上ります。一度契約を切られた新日本で、全日本プロレスに対し「俺は生き抜いている」と見えを張っていましたね。
そのころ、馬場さんがいつもの米ハワイのバカンスに行かず入院していると聞き「あの馬場さんでも病気をするんだ」と感じていました。そして99年1月、銀座の寿司屋にいるとき、亡くなったとの知らせ。献杯です。「人ははかなく死んでしまうんだ」と思いながら朝まで飲み弔いました。
そしてプロレス生活が長くないと思い「与えられたチャンスを生かすぞ」と強く思うようになりました。99年12月に新日本の武藤敬司から(新日本の看板ベルト)IWGPヘビー級の王座を奪います。49歳10カ月は今もIWGPの史上最高齢の王座です。試合後は全日本のときから応援してくれるファンが「天龍、天龍」と叫んで取り囲んでくれ、喜びを分かち合いたくてベルトを触らせました。
2000年6月には、全日本のエースだった三沢光晴らの大量離脱が起きます。とにかくびっくりです。三沢は全日本の若いころから酒を飲んで付き合い、よく知っています。「馬場さんが亡くなったからってそれはないだろ。そんな単純な話か」と思いました。
全日本に残ったのは一部の選手だけ。馬場夫人の元子さんから電話が入る。
元子さんは「こういう状況ですから戻ってくる気がありますか」と尋ねてきました。「戻っていいんですか」と返すと、「もちろんです。戻ってください」。素直にうれしかったです。