「カラヤン最大のライバル」「録音嫌い」「幻の名指揮者」……。長く謎に包まれていたが、1977年に読売日本交響楽団への客演で初来日して以降、ロンドン交響楽団や亡くなるまで音楽総監督(GMD)を務めたミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と何度も日本を訪れたため、巨大なカリスマとじかに触れ得たファンは多い。
終戦直後、ベルリン・フィル首席指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが「ナチス裁判」で「シロ」判決を得て復帰するまでの間、コンクールで選ばれた暫定常任指揮者が33歳のチェリビダッケだった。オーケストラを指揮した経験はほとんどなかったが、厳格なリハーサルと才気あふれる演奏で、焦土ベルリンの聴衆の心をつかんだ。
フルトヴェングラーが復帰すると楽員との溝が広がり、後任にヘルベルト・フォン・カラヤンが指名されて以降、さすらいの客演指揮者の道を歩んだ。オペラを「不純」、オーストリアの大指揮者カール・ベームを「芋袋」と酷評するなど、裏街道を歩むがゆえの毒舌も鋭さを増し、恐れられた。
71年、南ドイツ放送交響楽団(現シュツットガルト放送交響楽団)音楽監督に就き、ドイツ楽壇へ復帰。当時、NHKのFMでは海外放送局との録音交換制度を生かし、夏に「西ドイツの放送オーケストラ」という番組を制作していた。中でもチェリビダッケとシュツットガルト放送響が演奏するブルックナーの交響曲は、番組最大の注目音源となる。
激しいチケット争奪戦とともに実現した初来日の時はまだ、ダンサーを思わせる華麗な指揮ぶりも健在だった。それまで日本のオーケストラが奏でたことのない精妙な響きが、天井桟敷まで、くっきりと伝わった。
その後は禅宗への傾倒、痛風悪化の両面で動きが抑えられ、瞑想的とも言える遅いテンポの芸風に変わっていく。だがラテンの明晰な感性を基調に作曲家としての視点を備え、楽曲の構造を鮮やかに解き、決して重くならず再現する手腕は不変だった。