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SWS東京ドーム大会でハルク・ホーガンの必殺技を受ける(1991年12月12日)=東京スポーツ新聞社提供

SWS東京ドーム大会でハルク・ホーガンの必殺技を受ける(1991年12月12日)=東京スポーツ新聞社提供

「昭和のプロレス」を体現した人気レスラーで、65歳まで現役でリングに立ち続けた天龍源一郎氏の「仕事人秘録」。「時代の先をいっていた」というプロレス新団体SWSの取り組みに、既存の団体はどう反応したのでしょうか。

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 SWSと無事に契約を終え、プロレス界に様々な新機軸を打ち出した。

SWSは従来のテレビ局ではなく一企業がスポンサーにつき、選手の(待遇の)ランクが上がりました。世の中に存在が知れ渡り「ビジネスとしてのプロレスが独り歩きできるんだな」と胸を張って歩きましたよ。

泊まるのはビジネスホテルや民宿からちゃんとしたホテルに、移動はグリーン車になりました。日本独特のプロレスから一歩を踏み出したのはうれしかった。

SWSは大会場では選手入退場の1本の花道を作りサーチライトも使い電飾もきらびやかです。ファンがどこからでも選手を見やすくするためです。当時は別々の花道が当たり前。他団体から「戦う者同士が同じ花道を通るなんて」と非難囂々(ごうごう)でした。

ファンミーティングを開くと「ファンと距離が近すぎる」と批判されます。メガネスーパーはプロ野球でやったことをやろうとしたのでしょうが、何でもクレームがついてましたね。

今はどうでしょう。選手は新幹線のグリーン車に乗り、いいホテルに泊まり、ファンとの交流もやっています。SWSが時代の先をいっていたと思います。

別の効果もありました。他団体では「SWSには行くな」と選手のファイトマネーが上がったそうです。僕の契約金は数億円。僕がSWSに行くことでプロレスラー皆が潤ったと言ってもいいかもしれません。

最大の思い出は、1991年12月の東京ドームでのハルク・ホーガンとの一騎打ちですね。全米ナンバーワンのホーガンと戦うわけです。僕もSWSの社長として実現のために渡米し、(ホーガンが所属する団体)WWFの首脳と4回も会談しました。布石として同年3月にはホーガンとタッグも組みました。

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