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スタン・ハンセン(中)にダブルの延髄切りを見舞う天龍(左)とジャンボ鶴田。1983年から「鶴龍コンビ」で戦った=東京スポーツ新聞社提供

スタン・ハンセン(中)にダブルの延髄切りを見舞う天龍(左)とジャンボ鶴田。1983年から「鶴龍コンビ」で戦った=東京スポーツ新聞社提供

「昭和のプロレス」を体現した人気レスラーで、65歳まで現役でリングに立ち続けた天龍源一郎氏の「仕事人秘録」。全日本プロレスで共に戦ったジャイアント馬場と、ジャンボ鶴田への思いを語ります。

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 1981年7月の試合で天龍源一郎はようやくプロレスのファンに認められた。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田に次ぐ全日本プロレス「第3の男」の地位を固める。

後楽園ホールの試合後、馬場さんは何も聞かないし、僕も「米ダラスに行く」と言いそびれました。馬場さんの鷹揚(おうよう)な対応が常に僕のプロレス人生でプラスに働きました。入門時も米国に4回行ったときもそうです。

馬場さんに反対されたのはたったの2回だけ。一つは坂口征二さんが新日本プロレス社長になり90年2月に東京ドーム大会をやるとき。馬場さんと(新日本の)アントニオ猪木さんの仲が良くないのは知っていたので、対抗した大会を開こうと提案しました。すると馬場さんは「そういうわけにはいかないんだよ。坂口征二が社長になって最初のドームだから協力してやりたいんだよ」と。結局、ジャンボ、2代目タイガーマスク、僕らが協力して、ドームが超満員になったなあ。

もう一つは90年にメガネスーパーとSWSをつくるとき。「それは困るよ」と言われました。

馬場さんとは妙に馬が合いました。全盛期の話や米国で苦労した話を聞くのが好きでした。

 全日本時代の天龍を語る上で欠かせないのが、タッグパートナーであり好敵手でもあったジャンボ鶴田だ。

全日本に入った頃、馬場さんと2人が屋台骨みたいな存在で、馬場さんが年を重ねていくごとに「エースだなあ」と実感しました。

ジャンボは日本のプロレス界で力道山関から数えて3本の指に入る男でした。体が大きいのに器用で、できない技は1つもないし機敏です。教わったら瞬時に覚えてましたよ。スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディもとても強かったと思いますが、この2人に勝るものはあっても劣るものはなかったですね。

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