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サイゼリヤ1号店は青果店の2階にあった

サイゼリヤ1号店は青果店の2階にあった

イタリア料理店「サイゼリヤ」を創業した正垣泰彦(しょうがき・やすひこ)氏の「暮らしを変えた立役者」。第6回では火災から立ち直った当時を振り返ります。

◇  ◇  ◇

イタリア料理をするにあたり、食材探しで壁にぶつかりました。海外の食材が多く集まる東京・上野にあるアメ横にも、イタリアの食材は見当たらない。イタリア食材の専門商社の存在を知り何とか調達できることになりましたが、ルッコラなど手に入らない食材もありました。

「日本にないなら、自分でイタリアの野菜を栽培するしかないな」。ローマにあるマリアーノで食べた理想の料理を提供するために、いずれは自社農場を構えようと心に誓いました。

1968年、看板の名前は「サイゼリヤ」そのままに、洋食店からイタリア料理店に衣替えをしました。「これでお客さんは来てくれるはずだ」。そう確信していましたが、待てども待てどもお客さんはわずか。「なぜ、来てくれない」。日本では珍しいイタリア料理でもだめなのか……。

窮地でも支えてくれた働き手

従業員のために後には引けない状態でした。洋食店から従業員には十分な給料を払えないことがしばしば。つらくてたまらない。それでも、渋谷食堂からついてきてくれた山本慈朗さんは、まかないごはんを出してくれるだけで十分ですという。「給料なんていりませんよ。だから、ずっと居させてください」

慈朗さんのことはお母さんから、面倒を頼まれていました。洋食店時代、店で寝ている時に「慈朗、慈朗」との声が。誰だろうと思ってのぞくと、慈朗さんのお母さんでした。こんな若いやつについていって大丈夫かと思ったのでしょう。新潟の実家からわざわざやって来たのでした。

慈朗さんとひとしきり話すと、私の方に向き直りました。「慈朗をよろしくお願いします」。こんな私に頭を下げる姿に、「従業員を幸せにしなければ」と痛感しました。洋食店では難しかったけれど、イタリア料理店では何とかしなければ。お客さんが来ない原因を必死で考えました。

「こんな商店街の外れにあるから、誰も来てくれないんだ」。しかも八百屋が1階にあり、階段の入り口まで青果がせり出してくる。青果が邪魔で階段を上るにも一苦労でした。

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