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作詞の勉強をコツコツ続け、作詞学校では表彰された

作詞の勉強をコツコツ続け、作詞学校では表彰された

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第18回ではヒット曲も生んだ作詞家としての顔を明かします。

◇  ◇  ◇

富士そばの店内はいつもBGMが流れています。時にJ-POP、大抵は演歌です。演歌こそ、私のビジネス人生の原点であり、東京で日々働くサラリーマンの癒やしにつながるものだと考えています。

私と演歌の出会いは丁稚(でっち)奉公していた10歳代の頃です。夜1人さみしく店番をしていたときに、ラジオから流れてきた演歌にしばし聞きほれました。「いつかはこんな歌詞を書いてみたい」と。

立ち食いそばの仕事が軌道に乗った1980年頃、歌詞を書きたいという10歳代に焦がれた思いが再びわき上がってきました。そこで「マリモの唄(うた)」などを手掛けた岩瀬ひろし先生の通信講座で作詞の勉強を始めたのです。

55歳から作詞学校に通う

東京・六本木の作詞学校の門をたたき、本格的に勉強を始めたのは90年、55歳の春でした。当時、富士そばの店舗数は約50店。目標にしていた60店の8割に達したら、学校に通おうと決めていました。

授業は週に1度、夜間だけ。生徒は40人ほどで大半が女性、最年長は私でした。街中でも、食事をしていても、頭の中は作詞のことでいっぱい。いつも原稿用紙を持ち歩きました。ひとつのフレーズをひねり出すために徹夜したこともあります。

5年間コツコツと勉強して、さらに「葦(あし)の会」という学校にも通いました。ちょうどその頃、大きなチャンスが訪れたのです。歌手の白鳥みずえさんが歌う詞の公募に挑戦し、入選を果たしました。私の作詞デビュー曲「母娘舟(おやこぶね)」は97年7月に発売されました。

作詞家としてのペンネームは「丹まさと」。「岸壁の母」などの大ヒット曲を連発した作詞家、藤田まさとさんにあやかったものです。「いつかはああいう作詞家になりたい」という憧れから決めました。

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それから作詞の依頼が次々と舞い込むようになり、これまでに書いた曲は950以上、30曲あまりがCDになりました。天童よしみさん、水森かおりさん、三沢あけみさん……。そうそうたる顔ぶれに歌詞を提供し、島津悦子さんの「港のかもめ」は5万枚を超すヒットとなりました。

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