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かつても今も不夜城の新宿・歌舞伎町は都会で働く人々を引き付ける

かつても今も不夜城の新宿・歌舞伎町は都会で働く人々を引き付ける

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第13回では共同経営者と別れ、「富士そば」を独立させた時期を回想します。

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新宿に若者向けのバー開店

一緒にゼロから不動産事業を立ち上げ、その会社を一緒に辞めることになった私と大林さん。二人で話し合い、当面は飲食業に専念しようと決めました。といっても、あるのは立ち食いそば店だけ。大林さんは自身で経験したことがある水商売にこそ、大きなチャンスがあるといい、安い値段で飲める若者向けのバーの経営に乗り出しました。

1号店は1968年、新宿・歌舞伎町の雑居ビルの7階に出した「スカイコンパ」です。店の中央に円形のカウンターを設け、中に男性のバーテンダーを配置し、1杯200円から飲めるようにしました。サラリーマンだけでなく、OLもターゲットにしました。

夜の歌舞伎町は競争が激しく、同じビルの中でも客を奪い合う状況でした。風俗営業法の届け出を出して営業していましたから、閉店時刻は午前0時。とはいえ、上客がやってくるのは閉店時刻間際。閉店時刻が守れず、警察のお叱りを受けて始末書を書くこともしばしばでした。安く飲めるとの評判が次第に広がり、収益は右肩上がりでした。

2号店も歌舞伎町。当時の由紀さおりのヒット曲にちなんで店名は「スキャット」としました。開店前に体調を崩した大林さんが入院し、急きょ私が陣頭指揮を執りました。店内に大きな水槽を置き、熱帯魚を泳がせたのは私のアイデア。しかし、退院した大林さんは一目見るなり、「丹さん、悪いけれど、あの水槽を外してもいいですか」。

出店加速で資金不足に

客同士も話しやすい空間にして、知り合いになってくれれば、次の来店につながるというのです。都会で働く人たちはみな、不安を抱えているもの。店に集まって酒を飲むことでほっと安心できる。そんな場が求められていました。

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