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「そば清」1号店は後に、「富士そば」に改名した(1992年頃撮影、現在は閉店)

「そば清」1号店は後に、「富士そば」に改名した(1992年頃撮影、現在は閉店)

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第12回ではいよいよ立ちそば店を旗揚げした創業期の出来事を振り返ります。

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「モーレツ」の時代に商機を見いだす

月収500万円、食事は毎日、ステーキ……。この世の春を謳歌しつつも、心の隅には「バブルのような状況がずっと続くわけがない」という冷めた自分がいました。そんなとき、不動産会社の役員みんなで出かけた東北旅行で運命の出会いがあったのです。

日本海側の小さな駅。ホームをつなぐ跨線橋(こせんきょう)の下でおばあさんが1人、停車中の列車から降りてくる客を相手にそばを提供していました。てきぱきと丼を手渡し、受け取った客も急いでかき込んでいきます。「せわしないなあ」と車窓から眺めるうち、「待てよ、この商売は東京の忙しいサラリーマン相手には受けるかもしれない」とひらめきました。1967年、当時のサラリーマンは寸暇を惜しんでモーレツに働くことが美徳とされていました。

東京に戻り、役員それぞれに70万円ずつ出資してもらって、立ち食いそば店を始めることに。確実に日銭を稼げる商売もあったほうがいいでしょう、と説得しました。立ち食いそばは立地が重要と考え、物件を探して、東京都内をクルマで走り回りました。

そば調理の経験者はゼロ

渋谷の東急(百貨店)本店通りにあったケーキ店が退店し、次の借り手を探しているという話を聞きつけたのはちょうどそんなときでした。店舗面積はほんの4.5坪(15平方メートル)。保証金は300万円くらいだったでしょうか。ここでやろうと決めたものの、そばをつくれる人材が社内にはいませんでした。

社内に募ったところ、松本という従業員が「私が見習いにいきます」と名乗り出てくれました。銀座のそば店に出向いて、1カ月ほど。「そろそろできるか」と問うと、「まあまあできそうです」というので開業することにしました。

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