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立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第9回では実家を売り払って臨んだ、4度目の上京当初を回想します。

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墓にこだわる理由

愛媛県西条市の郷里に戻って、まず料理教室を開きました。両親は大保木(おおふき)村にあった家を引き払い、市街地に中古の家を買って、移り住んでいました。この家のガラス戸に白いペンキで「西条料理教室」と書き、生徒を募集しました。

生徒は主婦が多く、60人ぐらい。ただ、一家が生活していくには100人くらいはほしいところ。当時の西条市内では料理を習うほど生活に余裕のある世帯はそう多くありません。そこで、2階の空いている部屋を貸したりして、生活費の足しにしていました。

1961年7月、父は母のそばで息を引き取りました。享年83歳。かつては山林や貸家を保有したりしていた父も、亡くなるときには葬儀の費用さえ残っていません。私が1回目の上京の際に建てておいた墓に埋葬しましたが、墓は7年後、大理石のものに建て替えました。費用は70万円。当時としては大金でしたが、私は墓にこだわりがあります。初めて上京するとき、ある人に言われたのが「成功したいんだったら、ご先祖様を大事にしなければならないよ」。その言葉は今も信じています。仕事で苦労しているときなど「ご先祖様が支えてくれている」とつぶやくと勇気がわいてくるのです。

父の葬儀などをすべて終え、生活が落ち着くと、やはり東京で成功したい、との思いが燃え上がってきます。4度目の上京の決心を母に伝えると、「道夫が行くなら、お母さんも行く」。年老いた母の意外な決断でした。西条の家を売れば、東京の郊外に小さな家くらいは建てられるはず。それにはまず生活の足場を築かなくては。

身近な「起業者先輩」から刺激もらう

4度目の上京は失敗すれば、後はないとの覚悟でした。仕事は栄養学校の恩師、五十嵐先生が紹介してくれました。先生の紹介状を手に向かった先は東京・鶯谷にある給食センターでした。このセンターの片隅には3畳ほどの部屋があり、そこに住み込んで、朝から晩まで働きました。当時は経済も右肩上がり。工場などでは皆、寸暇を惜しんで働いているので、弁当の需要は伸びる一方でした。

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