STORY 日本電産 vol.1

「プロの営業であれ」 新たな働き方に挑むトップランナー

日本電産 精密小型モータ事業本部
大野 茂子さん

創業以来の「モーレツ主義」から「生産性主義」へ大転換し、2020年までの「残業ゼロ」を打ち出した日本電産。その最前線の営業部門で数少ない女性としてキャリアを重ねてきた大野茂子さん(41)は、プロパー社員として営業女性初の管理職を目前に新しい「日本電産の営業マン像」をつくり出そうとしている。営業としてプロになりたい――。自分の軸を見失わず、家庭では母として2児を育てながら、同社が進める働き方改革を現場から加速する。

「入社したい」代表電話で直談判

「画像をきれいに印刷するには"この子"の働きが非常に重要で――」。大野さんは日本電産の精密小型モータ事業本部の課長代理。オフィスで使う複合機の中に入っているさまざまなモーターの営業に携わっている。「この子」というのはアウターローターと呼ぶモーターで、トナーを印刷用紙に載せる本体の中核部品を動かす。「この子の回転の精度が甘いとお客様の求める画像品質を出せない」と大野さんは愛情たっぷりに説明する。

複合機の前はCD―ROMなどの光ディスクを回すモーターの営業を担当していた。こちらも光を読み取る装置とモーターが息の合った動きをしないと、データの読み書きが正常にできないなどのトラブルにつながる。大野さんはそうした高い精度が要求される小型モーターの営業一筋に歩んできた。

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大野茂子さんは日本電産が世界シェアトップの光ディスク装置用などの精密小型モーターの営業が専門だ

大学時代の専攻は国際関係学。中国研究のゼミで日中関係を学びながら中国語を磨いた。4年次に1年間休学して中国・北京に語学留学して帰国。本当は大学院でもう少し勉強を続けたい気持ちもあったが、「新卒で働くのは今しかできない。勉強したければいつでも戻ってこられる」という恩師のアドバイスで就職活動を始めた。就職課で勧められたのが、大野さんの大学のOGが働いていた日本電産だった。

日本電産はちょうど中国・大連工場で海外展開を強化するタイミング。東京支店の代表番号に直接電話をかけ、「中国留学で身につけた語学力を生かし、ぜひ活躍したい」と訴えた。すでに定期採用シーズンは終えていたが、この電話をきっかけに同社へ入社することに。このときに見せた持ち前の行動力は、のちに何度も壁にぶつかったときに道を切り開くエンジンとなる。

キャリアの出遅れに焦り

入社後、すぐに最初の試練が訪れた。東京支店の営業部に配属になったものの、同期の男性が営業職としてキャリアをスタートするなか、大野さんの担当は書類作成などにあたる営業事務。「"石の上にも三年"という気持ちでがんばった。しかし3年たって周りを見ると、同期は日本電産の看板を背負って営業マンとして顧客と向き合っていた。自分はそんなふうにできていない。営業部門で働く社会人としてこのままでいいのか――」。焦りが広がった。

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中国・大連に赴任して「初めて営業の本当のおもしろさを知った」

そんなタイミングで舞い込んできたのが大連への赴任の打診。海外で初めて営業の第一線に立つハードルはあったが、二つ返事で受けた。欧米企業の顧客を相手にパソコンなどIT(情報技術)向けの精密小型モーターの拡販に努める日々。「上司にも同僚にも恵まれ、仕事は厳しかったが初めて営業の本当のおもしろさを知った」。あっという間に大連の3年が過ぎていったという。そして日本に戻るとき、再び壁にぶつかった。

帰任にあたって提示されたのは営業事務の仕事だった。「私は営業マンとしてやっていきたいんです」。そう伝えると上司は、「営業マンはハードワークが求められる。これから出産などで働き方に制限が出てくると厳しいのではないか」。

それでも大野さんは食い下がった。「同期に比べたらこれまで7年も8年も営業マンとして出遅れているのだから、複雑な機能の製品の営業を経験しないと追いつけません」。上司も良かれと思っていた配慮を捨て、大野さんの熱意を尊重し、当時一番顧客とのすり合わせが難しいとされた光ディスクを回すモーターの担当を任せることとなった。

仲間と未来のキャリア描く

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夕食は「自分と夫の先に帰ったほうが作る」など、家事を柔軟に分担して仕事と両立しやすくしている

入社から10年が過ぎたころ第1子を出産。2学年差で第2子も授かった。「子育てしながらでもプロの営業職としてきちんと外回りにも行くし、顧客が海外の拠点を視察するなら同行する」。実家の近くに住み、子どもの保育園の送り迎えなどのサポートを得ながら夫と家事を分担し、産休・育休明け直後から、短時間勤務ではなくフルタイムで働ける体制を築いた。

「会社の働き方改革で営業職は直行直帰が可能になり、社外で業務ができるITインフラも整ったことも大きい」と大野さん。育児と仕事の両立を続け15年1月には課長代理に昇進した。営業部門でプロパーの女性社員初の課長ポストが視野に入るようになってきた。

ただ大多数を占める男性の働き方がスタンダードな同社の営業部門で、そんな部下を束ねる管理職を務めるのはきわめてハードな仕事だ。「仕事と家庭、どちらかだけに軸足を置くことはできない」。これから先のキャリアをどう描くか。再び、ぶ厚い壁にぶちあたった。

答えが見つからないなか、日本電産は15年下期から本格的な「働き方改革」をスタート。20年度までに生産性を2倍に、その結果として残業をゼロにする目標を掲げた。16年4月にはその一環で、有志の女性社員が集まり女性活躍推進に必要な制度や仕組みの提案をめざす「ワークライフプラスキャリアプロジェクト」を立ち上げた。「見えなくなってしまったキャリアを見えるようにしたい」。大野さんもプロジェクトへの参加を決めた。

このプロジェクトで大野さんはキャリア育成をテーマに考えるチームに所属。社員がそれぞれのキャリアの目標を持ち、達成することで日本電産を発展させる仕組みづくりをゴールに定めた。チームメンバーの5人で社員へのアンケートや社内制度を研究し、他社への取材などに奔走した。

そのなかで気づいたのは、「自分がずっとマイノリティーだった」こと。営業マンとして女性一人。女性の中で営業マンも一人という時代が長かった。「自分が感じる働きにくさは自分一人だけの問題だから、自分が合わせていくしかない」という考え方に陥っていたと大野さんは振り返る。チームメンバーの部署は管理部門や研究などさまざま。「営業としてキャリアが見えにくくなっているなら、違う部門に移ってみたら」というアドバイスも飛び出した。

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女性活躍推進のプロジェクトに参加して広がった社内の仲間のネットワークは心強い武器だ

そうした交流のなか、大野さんは「結局は営業のプロになりたいという思いがある」という自分のベースを再確認したという。1年間のプロジェクトを経て大野さんのチームは、「日本電産でかなえたい夢」を描く若手のための研修など、キャリアに関する複数の研修を永守重信会長に提案。承認を得て、一部の研修はすでにスタートした。この他にも、プロジェクトで提案した施策が、生産性向上の取り組みの一環としてスピーディーに実現していく様子に、大野さんは「自分たちの思いが伝わったようで本当にうれしい」と会社の変化に期待を抱いている。

未来の働く女性に

子育てと両立しながら、どのように営業の仕事をこなしていくか。難しい方程式だが、プロジェクトを通じて「いつかは答えが見つかる」と希望が持てるようになったと大野さんは話す。

例えば顧客への説明資料。かつては顧客に見せる前に完璧に仕上げようと時間と労力をかけていたが、いまは早い段階で顧客に提示し、相手が必要とする情報を重点的にまとめるようにしている。限られた時間で顧客に満足してもらえる仕事の仕方に知恵を絞る。

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仕事の責任を果たす大切さを子どもに伝えることは「働いているからこそできる教育」だと考えている

プロジェクトで得たもう一つの収穫は、世代の違う後輩女性とふれあえたこと。「この子たちがすくすくと日本電産で育ってくれたら」と強く感じた。女性が働き続けるには出産や育児でどうしても制約を受けやすい。それでも活躍しようと背中を押してくれる「"営業部のお母さん"のような立場の人が必要になる。そういう役割を果たせるのでは」。

未来の働く女性への思いは社内だけにとどまらない。5月に顧客が日本電産の海外拠点を視察するのに同行したときのこと。出発の前日、目に涙をためて「行かないで」と言う4歳の長女に自分の軸を伝えようと決めた。

自分は母であると同時に会社で仕事をする立場でもある。仕事で責任を果たすのはとても大切なことで、そのためにも明日は行かなければいけない――。「長女にも、将来そういう責任を果たせる人になってほしいと思っていると話した」。長女への言葉で自分自身も奮い立たせ、海外出張へと飛び立った。

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