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最初に入学した西条南高校農業科(現・西条農業高校、1950年ごろ)

最初に入学した西条南高校農業科(現・西条農業高校、1950年ごろ)

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第8回では高校を卒業して、栄養士として働き始めたころを回想します。

◇  ◇  ◇

新聞配達と夜間高校の日々

故郷に戻っても、高校だけは卒業しようと決めていました。愛媛県立西条高校の夜間部に転入し、仕事は新聞配達の仕事をみつけました。午前4時すぎに起きて、新聞を配り終えると午前8時。学校は午後5時から始まり、それまでは暇なので仕事を掛け持ちすることにしました。

仕事は、今治の問屋で子供の肌着やもんぺ、エプロンなどを自転車に積み込んで、西条までにある小さな商店に卸していくことでした。配達した店の多くは戦争で夫を亡くした女性が子供を育てながら切り盛りしていました。

仕事も学校も充実し、いよいよ卒業が目前。15歳で西条南高校を1学期で中退してから、働きながら足かけ7年、やっとのことで卒業までこぎつけました。大学に行って勉強を続けたいとの思いもありましたが、年老いた親のことを考えれば、無理は言えません。

それでも、東京に行きたい。大都会で成功したいとの思いが、ふつふつとわきあがってきます。すると母が「栄養学校に通う2年間ならなんとかなるから」とコツコツためた貯金通帳を見せてくれたのです。私は体が丈夫ではないから、栄養士の資格を身につけたほうがいい、と母は考えたようでした。

栄養士資格を得て、病院に就職

入学したのは世田谷にある栄養学校でした。授業料が比較的安かったことに加え、寮があったことが決めた理由です。それまでの上京で野宿をしたりして寝るところを確保するのに苦労してきたので。

23歳の春、3度目の上京です。授業料を母が出してくれたとはいえ、生活費は自分で稼がなくてはならず、いろいろなアルバイトをしました。食堂のボーイ、百貨店の中元・歳暮の配達、ポスター貼りなど。変わったところでは汗を売る仕事も。サウナのような小さな蒸し風呂に入って、汗を流して、出た汗の量によっておカネをもらいました。

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