2度目の上京、まさかの「虫害」で挫折 失意の帰郷
「名代 富士そば」創業者 丹道夫氏(7)
1950年前後の池袋
立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第7回では2度目の上京が再び失敗に終わったいきさつを振り返ります。
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炭鉱で働きながら夜間の高校へ
もう一度、勉強しようと意を決した私は会社にお願いして、福島県立湯本高校(いわき市)の夜間部に通わせてもらいました。仕事はそれまでの砂利の運搬というハードな肉体労働から配置転換。立て坑の穴を掘るために使う道具などの在庫を切らさないように管理する倉庫番になりました。高校に入学したことを母に電話で知らせると大喜び。受話器の向こう側に母の笑顔が見えるようでした。
仕事と勉強の両立は簡単ではありません。炭鉱の現場は昼も夜もなく、ツルハシが折れた、ナットがない、など真夜中にたたき起こされることもしばしば。それでも、誰が来ても嫌な顔をせず、いつも笑顔で応対しようと決めていました。
勉強のほうは3年間遠ざかっていたので、なかなか頭に入りません。当時の教科書は薄いのでズボンのポケットにねじ込んで、仕事の合間に読んで勉強していました。その姿をみた同僚に付けられたあだ名は「二宮金次郎」でした。
持ち前の商才で入院費を工面
翌年、夏休みを利用して、かねて悪かった鼻の手術を受けることに。炭鉱で知り合った矢吹さんという方の紹介で、日大医学部付属板橋病院(東京・板橋)に入院しました。手術は無事終わりましたが、入院日数が予定よりも長引きそうで、このままでは治療費が払えなくなってしまいます。