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上京の際、働き口を紹介してくれた中学時代の恩師、伊藤始先生(最前列の左端)

上京の際、働き口を紹介してくれた中学時代の恩師、伊藤始先生(最前列の左端)

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第5回は東京での就職失敗を振り返ります。

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面接受けに、憧れの東京へ

「お母さん、東京に行かせてください」

三河屋をやめた後、私は故郷の大保木(おおふき)村に戻りました。土木関連の仕事などをやってみたものの、地元での生活は金魚鉢の底にいるようなもの。息苦しさを感じる毎日、東京へのあこがれは募っていきました。田舎と違って、大都会の東京には自由があり、成功するチャンスもいっぱいあるはず。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなくなったのです。

母は猛反対しました。当時、四国から都会に出るといえば、大阪が一般的。大阪を飛び越して、東京に行くなんて、もってのほかです。今日のように交通が発達していなかった時代ですから、東京に行かせたら、もう二度と会えないと思っていたのかもしれません。

東京行きは近所の人にも反対されました。ただ、私も闇雲に東京に行きたいと言い張っていたわけではありません。

中学時代の恩師、伊藤始先生に相談しました。先生は東京在住。知り合いを通じて、働き口を紹介してもらい、後は私が面接を受けるだけになっていました。粘り強く説得し、最後にとうとう、母は涙を流しながら、首を縦に振ってくれたのでした。

1953年春、初めての上京に期待と不安を抱きながら、見送りが誰もいない西条駅のホームに立ちました。線路の向こうには夢が燃えています。香川の高松駅行きの列車に乗り込み、席に着いて車窓を眺めていると、母や友人たちの顔が思い浮かんできました。

高松からはフェリーで瀬戸内海を渡り、岡山の宇野港まで1時間。船内では1杯20円のうどんをすすりました。宇野港に着くや、乗客全員が駅に向かって駆け出しました。東京行きの夜行列車の座席を確保しようと、必死です。通路まで人でびっしり。幸い座れた私は大阪を過ぎたあたりで眠りにおちました。

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