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家訓は自身が生前に立てた墓石に刻んでいる

家訓は自身が生前に立てた墓石に刻んでいる

立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第4回は高校中退後の住み込み働きの日々を振り返ります。

◇  ◇  ◇

高校を中退後、(母の弟である)秀夫おじさんのすすめもあって、西条市内の青果店「白木」で住み込みの丁稚(でっち)奉公を始めました。仕事はもっぱら得意先を自転車で回るご用聞きと店番。私の寝る場所は店の裏手にあった建てかけの家の2階でした。果物などが詰まった山積みの段ボールの隙間に布団を敷いていました。

なりたいと考えたこともない青果店の仕事にはなかなか身が入りません。丁稚奉公は私1人だけ。夜の店番が嫌でした。客が来なくても午後11時まで。「そろそろ、閉めようか」と奥さんの声がかかるまではひたすら独りぼっちでした。

そんな日々の慰みは通りの向こうを眺めることでした。店の向かいのバー「マルタ」は日暮れとともに店内に明かりがともり、ミラーボールが光り始めます。店から眺めていると、バーで働く幸姉さんから「遊びにおいでよ」と手招きされて、一度だけ客として行きました。お酒が飲めるわけでもなく、他愛ないおしゃべりをするだけでした。

たまたまバーにいるところを青果店の主人に見つかり、「あの店に行ってはダメだよ」と叱られました。

幸姉さんはそれから、深夜に時折、私の部屋に来るようになりました。よもやま話をして帰って行くのですが、ある日から、ぱったり来なくなりました。マスターに聞けば、辞めたとのことでした。

1950年代には中学校を卒業して丁稚奉公に出る若者は珍しくありません。同じ境遇の若者と会えるのは銭湯でした。1日の仕事を終えて、つかの間のおしゃべり。「独りぼっちの店番はさみしいよ」と愚痴をこぼすと、その場にいた和田さんが「それなら、うちに来たらいいよ」と声を掛けてくれました。

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