通学に疲れ、1学期で高校中退 青果店へ住み込み
「名代 富士そば」創業者 丹道夫氏(3)
中学時代は水泳が得意だった(最後列右が筆者)
立ち食いそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第3回は高校を中退して、青果店で働き始めた経緯を語ります。
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肺の病気による長期欠席で始まった中学生活。寝込んでいた間、母は父の目を盗んでは卵など栄養のあるものを私に食べさせてくれました。当時はペニシリン1本の値段がコメ1俵。薬代をまかなうため、母は大事にしていた着物まで売ってくれたのです。
母の看病のおかげで病気は3カ月で完治し、大保木(おおふき)中学校には夏から通い始めました。戦争が終わったばかりで、物不足がひどく、食べ物はもちろん、着る物もろくにありません。寝間着のような服でしたが、みんな似たり寄ったり。身なりを気にすることもなく、思春期を過ごしました。
中学時代、一番心に残っているのは水泳大会です。全校でトップになっただけでなく、タイムは先生をも上回り、驚いた同級生たちからは「フルハシ」というあだ名をちょうだいしました。フルハシとは当時、世界記録を連発し、国民的なヒーローとなっていた古橋広之進さんのこと。小さいときから近所の川を上流に向かって泳いでいた私にしてみれば、泳ぎは得意中の得意だったわけです。学校では友達も増え、楽しく過ごしました。
中学3年になると、いよいよ卒業後の進路を考えるときです。高校には行きたいけれど、70歳を過ぎた父は老け込み、弟はまだ小学生。そう考えると、無理は言えません。学校に提出する調査票に「就職」と書いたところ、母には驚かれました。父との再婚もそもそも、私を進学させるためだったのですから。