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幼少期を過ごした愛媛県大保木村(現・西条市)の実家(右が本人、1998年ごろ撮影)

幼少期を過ごした愛媛県大保木村(現・西条市)の実家(右が本人、1998年ごろ撮影)

立ち食いそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第2回は終戦前後の小学校時代を語ります。

◇  ◇  ◇

還暦を過ぎて生まれた弟に父は大喜び。血がつながった弟をかわいがる一方、私に接する態度は変わっていきました。ある日、家の近くを流れる加茂川で遊んでいたとき、足を取られ、あっという間に水の中へ。気を失った私は川下へ100メートルぐらい流されたところで、近所に住む工藤清さんに助けてもらい九死に一生を得ました。

清さんに家まで抱きかかえてもらった私を見るなり、父はいきなり私のほおを平手打ち。よそ様に迷惑をかけたことが許せなかったのでしょう。本来なら子供が助かってホッとするのが親心。しかし、父は清さんに礼も言いません。ほおをぶたれた痛さだけではなく、涙が止まらなかったことを今でも覚えています。

1941年、私は家から歩いて10分ぐらいの大保木(おおふき)国民学校(戦後は大保木小学校)に入学しました。体が大きくなると、父から家の仕事をやるように命じられました。川に行って風呂に使う水をくみ、山に行って薪(まき)にする木の切れ端を拾い、畑仕事もやりました。閉口したのは肥くみでした。毎月、たまったふん尿を杓(しゃく)でくみとって樽(たる)に入れ、肩でかついで300メートルぐらい離れた畑まで運び、まくのです。

「弟も私も同じ人間。なのにどうしてこんなにも差を付けるのか」。子供ながらにそんなことを考えたこともありました。後に経営者になって、正社員とアルバイトの待遇に大きな差を付けたくない、と考えたのも、こうした生い立ちが原点にあったからです。

どん底の幼少期だから、周囲の人たちの温かさは忘れられません。

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