桜並木を津波到達点の目印に 命を守る植樹続ける
「奇跡の一本松」で知られた岩手県陸前高田市だが、植樹事業「桜ライン311」も同市から始まった。写真はイメージ
東京の桜は見ごろを過ぎたが、北国ではいよいよこれからだ。2017年6月、岩手の陸前高田市で「桜ライン311」の代表を務める岡本翔馬さんにお目にかかる機会を得た。「桜ライン」とは岡本さんが中心となってデザインする「命を守る桜の境界線」だ。
陸前高田出身の岡本さんは仙台の大学在学中にインテリアデザインに興味を持ち、卒業後に上京。念願通り大手の建築関連会社の店舗装飾部門でバリバリ働き成果を上げていた。
ところが、11年3月11日に東日本大震災が起こった「あの時間」、突然、本社の免震ビルが揺れに揺れた。その後、都内の交通がまひしたのはご存じの通りだ。だが、岡本さんに「帰宅困難」を心配する余裕はなかった。
テレビでは気仙沼、釜石、仙台の各港を巨大津波が襲う映像が繰り返し流されたが、そこから近い、海岸沿いに民家の並ぶ、故郷・陸前高田市はそれ以上の被害を受けているに違いない。親たちは無事でいてくれただろうか?
「あのー……」
切羽詰まった部下(岡本さん)の顔を見た上長から即座に答えが返ってきた。「行けるようなったら、行ったらどうだ。現地からこちらに連絡がつくようになったなら、必ず連絡をな。その後はお前の自由にしろ」
生と死を分けた「祖母の一言」
地元出身の友人を誘い、3人は車で故郷を目指した。渋滞の国道4号線をとろとろ走り、13日夕方に現地到着。高台から見下ろした、津波で完膚なきまでにやられたがれきの街を見て3人は同じことを思った。
「陸前高田は終わったな」
「親の葬式ってどう出すんだろ」
高台にあった学校など、かろうじて流されなかった場所に100カ所ほどの避難所が設けられていた。3日ほどかけずり回ったところで岡本さんは家族の無事を確認できたが、その喜びを口にすることはなかった。一緒に東京からやって来た仲間の家族を発見することができなかったからだ。
避難所では幼なじみが水や食料、毛布の配給などのボランティア活動に汗を流しているのを見て、岡本さんもその活動に加わった。道路がかろうじて動き始めたころ、岡本さんは東京に戻り仕事に復帰した。
その後は土日、有給休暇を使いながら現地に通ったが、「僕が一番役に立つ場所にいたい」との思いが募り、退社を願い出て再び被災地に向かったのだそうだ。
仲間たちとボランティア活動をしながら考えたのは「生と死を分けたのは何だったのか?」だった。
岡本「うちの親たちが助かったのは、祖母の一言だったようです。揺れが収まってみんながほっとしていたとき、祖母が言ったそうです。『こんなに揺れて、津波が来ないわけがない。高いところへ逃げなきゃだめ!』」