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当時の料理のマニュアル。フロアサービス、清掃など店舗運営の全てを明文化した

当時の料理のマニュアル。フロアサービス、清掃など店舗運営の全てを明文化した

すかいらーく元社長の横川竟(よこかわ・きわむ)氏の「暮らしを変えた立役者」。第11回は成長の礎となった、マニュアルづくりと人材獲得について振り返ります。

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すかいらーくが作ったセントラルキッチン(CK)が新聞で話題になると、キユーピーの藤田近男社長(当時)が飛んできた。そしてこう語りかけてきた。「これは私たちがやるべき仕事です。外食の方に工場を作ってもらうのは恥ずかしい。これからは私たちに任せてください」

キユーピーはすごい会社だなと思った。もちろんCKは自前で運営するが、キユーピーからは食材の調達などで協力を受けることになった。連日、見学したいとの連絡も社長室に入る。さすがにテレビには心臓部を映させなかった。改良すればするほど資金が必要になる。4兄弟のオーナー会では「金食い虫だな」と何度も皮肉られた。

CKは東松山に続き、関西の鳴尾浜に作った。九州や東北にもCKは置いたが、ソースという手間のかかる食材を作るのは東松山と鳴尾浜だけだ。当時、関東に大地震が来ると思っていたので、鳴尾浜に作ったのはバックアップの狙いもあった。だが先に大震災が発生したのは関西。「自然の前では、人間の力など小さなものだな」と感じた。

話は戻るが、供給体制が整備され、1000店への姿が見えてきた。問題は採用と教育。過去の回でも触れたが、人材を求めて大学回りをしていた長兄の端(ただし)を、明治大学のある先生が気に入ってくれた。他大学を含め就職課に影響力を持った人物だった。そこで大卒者を採用できるようになった。

昭和45年(1970年)に大卒1期生として3人を採用したが、入社日に来たのは1人だけ。彼、小池泰男は後に和食レストラン「藍屋」の社長を務めた。昭和47年(72年)には13人が入社。その中の1人が30年ほど後、我々創業家からバトンを受け取り、すかいらーくの2代目社長に就くことになる伊東康孝だった。

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