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伊勢龍では朝昼晩、8人分の食事を作り続けた

伊勢龍では朝昼晩、8人分の食事を作り続けた

すかいらーく元社長の横川竟(よこかわ・きわむ)氏の「暮らしを変えた立役者」。第2回はビジネス人生の基礎となった東京・築地での乾物問屋勤めを振り返ります。

◇  ◇  ◇

丈夫さが取りえだったのに、あまりにひどい労働環境に耐えきれなくなった。盲腸を患い、発熱しても働いているうちに盲腸が大腸に癒着し、化膿(かのう)してしまったのだ。生死をさまようような病状で、入院する羽目になった。

退院する時、勤務先の工場長が訪れ、親切心から「おまえが勤めるような会社じゃないから、辞めた方がいい」と忠告してくれた。そのまま退社し、長野県に戻ることになった。

じっくり考えて選んだ食べ物商売の道

お金はないけど、時間だけがたっぷりある。夜明けとともに歩き出し、5時間かけてスケート大会などの見物に出かけた。

実家でふらふらしながらも「俺は何をやるべきか」と人生を見つめ直した。家具などのような一生ものの事業は難しい。必ず消費して、なくなるものがいいとの結論に達した。それは食べ物だ。その時に自宅に桜を7本植えた。それが今も1本残っている。兄弟の間では私の名前から「竟(きわむ)桜」と呼んでいる。

食べ物の道に進もうと決め、友人の母親を通じて東京・築地の乾物問屋の「伊勢龍」へ頼みに行った。伊勢龍は腕のいい料理人などを顧客に持ち、格式の高い問屋だった。ところが間に合っていると門前払いだ。こちらも引き下がらず、何度も頭を下げ、頼み込んだ。根負けしたのか、ようやく働くことを認めてくれた。

ただし条件がついた。伊勢龍の社長は「従業員8人分の食事を朝昼晩、次の新人が来るまで作れ」と。結局、昭和30年(1955年)からの4年間、新人は入らず、食事を作り続けた。さまざまなことを学び、独立するための知恵や姿勢を会得した17歳から21歳までの4年でもあった。私はこの時期を「築地大学」の時代と位置づけている。

ビジネス人生の原点は「築地」にあり

ボストンバッグにシャツとパンツ2~3枚、布団2枚を持ち、再び始まった東京生活。やはり4時半に起きて夜まで働く過酷な労働環境だった。だが前の仕事とは違い、面白くて全然きつくはない。厳しい社長だったが、おかげで商売のことはしっかりと学んだ。一言で言うならば「商売はうそをつくな。いい物を売れ、余分にもうけるな」だ。これはその後のビジネス人生の原点となる。

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