「ブラック企業」からの出発 倉庫で住み込み生活
すかいらーく元社長 横川竟氏(1)
すかいらーく元社長の横川竟氏
すかいらーく元社長の横川竟(よこかわ・きわむ)氏の「暮らしを変えた立役者」。第1回は過酷な労働環境を体験した、住み込みの営業担当者時代について語ります。
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50年間近く携わってきた外食ビジネスは今、壁にぶつかっていると思う。一言で言うと食堂は必需品だが、レストランは楽しくないとダメだ。自宅より良質な椅子、トイレもぴかぴかにして非日常的な体験を提供する努力が欠かせない。
現在、東京・国立などで高倉町珈琲というカフェを展開している。自分自身、創業したすかいらーくを含め、理想に到達できなかったという悔いがあるからだ。そんな酸いも甘いも味わってきた半生をこの場を借りて、振り返ってみたい。
昭和12年(1937年)11月、長野県境村(現富士見町)で5人兄弟の三男として誕生した。「横川中隊」と呼ぶ開拓団のリーダーとして父が中国・満州へ渡り、私も3歳の時から連れて行かれた。広大な土地で豚にエサをやったり、キジをつかまえたり、のびのび遊んだ記憶しかない。いわばやんちゃ坊主だった。
外食ビジネス志した原点
だが父が病死し、6歳の時に長野に戻った。そのときに母の実家で食べた白米がとてもおいしかった。それがきっかけで食をなりわいとした生き方をしようという心が芽生えた。
故郷に帰ったが、家は貧しく、小学校3年生から新聞配達を始めた。長男の端(ただし)は旧制学校をやめて、精工舎(現セイコークロック、セイコープレシジョン)に入社。母は学校給食の仕事を持ち、次男の亮(たすく)は伯母の実家である茅野家に養子に。姉は呉服屋の住み込みと家族総出の働きぶりだったが、生活はいっこうに楽にならない。
私も勉強が嫌いだし、土日は茅野家の田植えや畑作を手伝った。どうせ食えないし、勉強しても仕方がないとも思い、中学2年の時に東京へ出て働こうと考えた。仲良しの同級生3人で「俺たち成功しようぜ」と誓い合ったものだ。