30歳で社長就任 「君は成功しない」と部下が見限る
日本マイクロソフト社長 平野拓也氏(上)
日本マイクロソフト(MS)の平野拓也社長(46)は1995年に米国の大学を卒業し日系商社の現地オフィスに入社。2年で経営分析ソフトウエア企業に転職した。
入社後の指示は「日本事業を伸ばせ」だけ。上司もいませんでした。私は社会人2年目で、業界のことも知りません。最初の数カ月はひたすら同僚に質問して学ぶ日々でした。
1995年(平7年)米ブリガムヤング大卒、兼松入社。05年日本マイクロソフト入社、15年社長。北海道出身。
仕事がわかってきた頃、会社が同業のベンチャーと合併し、日本法人勤務になりました。20人ほどの組織で、役職はアライアンスマネージャーでしたが部下はいませんでした。
営業やマーケティングなど仕事は多岐にわたり、会社全体を見るいい経験になりました。そのうち米国本社の社長とも日本法人を伸ばす戦略について議論できるようになっていました。
大企業との交渉では全力でぶつかった。
年功序列の日本で、社会人経験が4~5年の私1人で、三菱商事のグループ会社の社長や富士通の役員と交渉しました。
会社の代表とはいえ、相手に比べて経験も知識も技量も全て足りず、若さゆえの熱意だけが武器でした。貫禄を付けるため、「白髪や顔のしわが増えないかな」と鏡を眺めた時もありました。
この頃にバランス感覚を養いました。経験値がゼロでも周りの仕事ぶりをコピーして徹底的に吸収する。自分に欠けた部分を自覚し、人の意見や知識で補完し一緒に目的を達成する。今でもできる人の意見は素直に受け入れています。
2001年、日本法人社長に就任。組織で最年少の30歳だった。
本格的に組織を率いたのは初めてです。とはいえ、数十人の所帯ですから、大企業なら一部門のトップほどの規模もありません。仲の良かった営業部長が就任1週間で「君が成功するとは思えない」と部下と共に去りました。
つらい出来事が続きましたが、大きな案件を獲得する機会が巡ってきました。ある自動車関連企業の案件では日本IBMと競合しました。最終プレゼンテーションには全社員が参加して挑みました。実は私の妻も参加していました。
製品に絶対の自信があり、社員を並ばせて「人数でも負けない」とアピールし受注しました。大きな相手と戦うと、すごく盛り上がります。同じ目的の下、全員が同じ方向を向くと組織に一体感が醸成されてくることを学びました。
シリコンバレーはITバブルまっただ中だった。新たなビジネスが相次いで立ち上がり、会社を成長させて新規株式公開(IPO)で売り、次の事業機会を探るのが当たり前だった。小が大をのみ込むM&A(合併・買収)も相次いだ。