魅惑のご当地おでん ホッキ貝、車麩、白黒はんぺん…
学生時代のいっとき、銭湯の隣に住んでいたことがあった。アパートに風呂はついてはいたが、ねこの洗面器かというくらい湯船が小さく、また小さいくせにお湯がたまるのが異常に遅い。「お風呂に入ろう」と思ってから小一時間も待たされるのが腹立たしく、イラチな私はつい隣の銭湯へ走るのが常だった。
その銭湯の建物には何軒かの飲食店がくっついていた。案の定どの店も風呂上がりの客で賑わっており、入りきれない客には持ち帰りができるよう、どの店もテイクアウト用の窓口が用意されていた。
私も今夜の肴にするものをしばしば買い求めたものだ。焼き鳥、コロッケ、モツ煮込み……中でもよく買っていたのは、おでんだ。
もともとおでんが好き、この店の味が良い、店主の人柄がいい、ということももちろんあったが、なぜかいつもおまけしてくれることも大きな理由だったと思う。若さとはいつも腹を減らしていること。つまり、ご馳走してくれる人はいい人で、その好意に報いるためなら、連日のおでんも厭わなかったからだ。
今思うと、私が若くて貧乏そうだというだけでおまけをくれたわけではなかっただろう。銭湯へ行くのはたいてい真夜中。もう風呂屋もおでん屋も閉店間際だ。
きっと明日には残せないものを「捨てるよりは」と、おまけに入れてくれたのだ。記憶にある「おまけおでん」は、くたくたになった昆布や、たっぷり汁気を含んで大きくなったさつま揚げなど、命尽きる前の最後の花火のようなおいしさがあった。
明日に残せないのは、明日食べてもおいしくないから。実はおでんの具材には、それぞれ食べごろがある。それを見極めることが、おでんをおいしく食べるコツだ。
まずおでんの具は「味を吸うもの」と「味を出すもの」のふたつに分けられる。
「味を吸うもの」とは、大根やこんにゃく、厚揚げなどで、提供までにじっくり時間をかけて煮るのが普通だ。例えばこんにゃくは、あえて1日めは鍋の底に沈めておき、一晩かけて味を含ませ、次の日になってからお客に出す店もあるほどだ。
時間と手間がかかるといえば、大根の右に出るものはないだろう。どの店でも人気ナンバーワンであるがゆえに、仕込む量は膨大。さらに大根は意外と味と香りのクセが強いため、鍋に移す前にしっかりと下ごしらえをしなくてはならない。
やり方は店によって様々だが、米のぬか汁や熱湯で下ゆでする、流水にさらす、一晩水につけておく、いったん完全に水気を切る、下煮用のだしで炊いておき提供時には別のだしで温め直す、そもそも大根だけ別の鍋で炊く、などとにかく手がかかる。
かつてビールのCMで「はぁ~鍋底大根」と、茶色くなるまでよく煮えた大根を頬張っていたシーンがあったのを覚えているだろうか。味を吸う具材は、時間が味を作ってくれる。このように鍋底に忘れられたような状態でも、味はとびきりだったりする。
一方、練り物や魚介類、肉など「味を出すもの」は、短期決戦。ぐずぐずと煮ていると、うまみが全部出てしまうため「味を吸うもの」と比べると時間の制約が厳しい。中にはさっと熱いつゆをかけるだけのもの、だしの中で温めるだけのものもある。同じ鍋の中に入っていても、具材の食べごろにはかなりの時間差があるのだ。
9月に入り、どのコンビニでもおでんに力を入れ始めた。冬の食べ物のイメージが強いが、実際は「昨日より少し涼しいかな?」と感じる、秋の入口がよく売れるらしく、どのチェーンもこの時期におでんセールを実施している。私も毎年この時期になると「今年のおでんは何が変わったのか」を知りたくて、あちこちで買いまわっている。
コンビニで商うようになって以来、おでんはずいぶんと身近な食べ物になった。しかし一方、おにぎり同様に「おでんの共通語化」も進んできた。おにぎりの標準が「三角形の海苔パリパリ」になったように、おでんも東京発の具材が広く知られるようになったからだ。
例えばだしの上にぷかぷかと漂う白いはんぺん。これは「浮きはんぺん」とも呼ばれ、もともと東京近郊とごく一部の地域でしか食べなかったものだ。他地域のはんぺんは食感も違えば、形も違うし、もちろん浮かない。コンビニの店頭で初めて浮きはんぺんに出合い「あの白いものは何だ?」と謎に思った人は多かろう。しかしそれも一昔前の話。今ではすっかりおなじみの光景になったはずだ。
それでもおでんには、その土地ならではの味がまだ色濃く残っている。だしも違えば、具材も違う。伝統に加え、料理人の創意工夫が新しい味を生むこともある。駆け足ではあるが、私の出合った各地のご当地おでんを紹介していこう。
札幌出張で出合った印象的なおでんだねは、ホッキ貝、タラの白子、ウニなどの新鮮な魚介類だ。特に目の前で殻をむいて、熱々のだしをかけるホッキのおいしさにはメロメロになり、何度もお代わりをしてしまった。
ホタテやつぶ貝なども珍しくはなく、さすが北海道と感激したものだ。
静岡で食べたのは、牛すじベースで継ぎ足し作るという真っ黒なだしに、イワシなど青魚のすり身で作る半月型の黒はんぺんと、どんと丸ごと煮込まれているナルトが印象的な「しぞーかおでん」。
具材は全て串刺しになっており、食べる直前にお好みで青海苔とだし粉をかけるのが楽しい。
金沢おでんは華やかな「カニ面」が有名だが、私のイチオシは、まるでバゲットを切ったような大きな車麩だ。
おいしいだしをたっぷり吸い込んで、とぷんとぷんと揺れる車麩は、噛み締めると意外にももっちりと引きが強く、その食感はとてもくせになる。金沢でおでん屋に入ったなら、最初は車麩で始め、最後は車麩でしめるほどのお気に入りだ。
大阪のコロとサエズリは、幼い頃に本で読んで以来の憧れだった。最初に食べた時の感動は忘れられない。ああ、なんておいしいんだろうと調子に乗って8本も食べ、その日のお会計がとんでもなく高くついたのは誤算だったが、今でも大阪へ行ったならコロとサエズリを食べずには帰れない。
そして名古屋。およそ「真っ黒いおでん」ということで言えば、名古屋がダントツだろう。見た目だけで「しょっぱいんじゃないか」と思うかもしれないが、その味わいはむしろ「枯淡」というのがふさわしい。長い店では70年近くも毎日継ぎ足してきた味噌だしは、甘さも辛さもまろやかに溶け合い、シチューのよう。艶やかに黒光りする大根、はんぺん、卵…。
そうそう、串カツも忘れちゃならない。おでん鍋の味噌だしにどぶんとくぐらせて出されるのが、味噌串カツの正統だ。串カツの油がさらに味噌だしにコクを与え、エンドレスでうまさが増していく。
あの銭湯のおでん屋は具だけでなく、だしも大量におまけしてくれた。ということは「だしも明日まで持ち越さない」つまり、毎日だしを引く店だったのだろう。おでんのだしは、継ぎ足していく店と、毎日新しく引く店とある。どちらがいいというのではなく、その店の目指す味にどちらが向いているかということだ。
おでんは気軽さが魅力の料理だ。湯気の向こうにふつふつと微笑んでいる食べごろの具をあれこれ指差すだけで、すぐに食べることができる。しかしお客に出せる状態になるまでに、恐ろしく手間も時間もかかっていること。だしや具材、味噌だれには叡智が込められていること。次はそんなことに思いを馳せながら食べてみよう。それを知ると知らないとでは、うまさが違う。
(食ライター じろまるいずみ)
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