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丸井で国鉄との文化の違いを痛感(1988年、東京都新宿区)

丸井で国鉄との文化の違いを痛感(1988年、東京都新宿区)

九州旅客鉄道(JR九州)の唐池恒二(からいけ・こうじ)会長の「仕事人秘録」。第3回は丸井での研修時代について語ります。

――その後の人生を過ごす九州に転勤した。

国鉄バス棚倉営業所(福島県)で1年を過ごし大分鉄道管理局に赴任しました。着任日に職員が大分駅で出迎えるはずが、重い荷物を持って駅に降りても誰も声をかけてくれません。キャリアのエリートが来るとの情報から人物像を想像したのでしょう、私だとは思わなかったみたいで。職員が「それらしき人はいなかったぞ」と電話して去っていきました。仕方なく一人でとぼとぼ出向きましたよ。

人事課十訓――。在籍した人事課で十の教えを作りました。「暇あらば現場に出(いで)よ」。海軍の「士官たるものは甲板に出よ」を読み替えました。人事課補佐の植山正直さんから学びました。「暇があれば外に行こう」とよく声をかけられまして。現場に行くとトラブルを発見するけれど、解決策も教えてくれます。

国鉄最後の時は門司鉄道管理局の人事課長で迎えました。分割民営化でどのJRに配属されるか分かりませんでしたが結果的には良かった。JR九州は自由闊達でほど良い規模。九州ははちゃめちゃに挑戦する風土がありましたから、後に次々と新しい取り組みが生まれたんですよね。

――研修先の丸井で人生が変わった。

JR九州発足後すぐに石井幸孝社長(当時)から命じられました。「民間としてどう勝ち抜くか学んでこい」。行き先はDCブランドで席巻していた丸井。石井社長が丸井の青井忠雄社長(当時)と新宿高校の同級生という縁で頼んでくれました。丸井での第一歩は1987年10月20日、かの「ブラックマンデー」の日でした。世界の株価が暴落する異様な雰囲気でしたが、新しい職場はその空気を変えてくれました。

事務所に入ると机に自分の名刺が用意され、引き出しの中には「歓迎、唐池様」のメッセージと小さな花。日々の仕事で感動を与えずして、お客様に喜んでもらえない。国鉄時代になかった発想です。

国鉄という官のような会社と民間会社との大きな差。衝撃でしたね。丸井で影響を受けたのが番頭の酒井米明専務(当時)でした。「隠すことがない。どうぞみてください」と極秘会議まで入れてくれました。

ですが、身内同然に扱ってくれるからこそ大変。会議で発言しない人は次から呼ばれないので、懸命に議論に食いついていきましたよ。あいさつの文化すら違いました。酒井さんはパートも幹部社員も必ず自分から声をかけるんです。JR九州は私が社長になるまで全然あいさつをしない会社でしたから。丸井で学んだことを徹底しようと、私から「おはよう」と率先しました。照れくさいけどね。

酒井さんと2015年に飲む機会がありました。「唐池さんが来た時に業績が伸び始め、忙しくて大変だったんだ」。良い時期に巡り合いました。その丸井が運営する商業施設「マルイ」がJR博多駅前に九州初出店。深い縁を感じますね。

[日経産業新聞2016年4月15日付]

仕事人秘録セレクションは金曜更新です。次回は2017年9月22日の予定です。

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