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私の課長時代

自己満足だった指導法 部下に考えさせ意識改革 いすゞ自動車 片山正則社長(下)

2017/8/20

いすゞ自動車の藤沢工場

■米国から帰国し4年たった1991年、藤沢工場の技術センターで課長級の主任となる。

徐々に部下が増える中、指導法を見直す転機がありました。あるとき、部下に「君の考え方は間違っている」と指摘し、なぜ間違っているのかを理詰めで説明しました。すると、仲の良かった別の部下にいさめられたのです。「片山さんの言うことは論理的だし正論。でも、それでは言われた方は逃げようがない」と。反省しました。部下のためによかれとしたことですが、自己満足だったのです。その後は相手のキャパシティーや成長を考慮し、逃げ場をつくるようにしました。

■97年、物流を管理する生販業務部長となり現場改革にも着手した。

当時、トラックを生産する際は200社以上の取引先にファクスで通知していました。しかし、送信先が登録されておらず、毎回皆が昼食も取らず電話番号をいちいち入力していたのです。創造的な仕事ではないと感じ、効率的なやり方を考えるよう部員に指示しました。ファクスメーカーの担当と連携し、どのような機器をどんなレイアウトで配置しデータを読み込ませるかを検討。2カ月で改めました。社員の意識改革には自ら考えさせることが必要です。課長は実務が仕事でしたが、組織の活性化は部長の仕事だと認識しました。

■2002年、リストラのさなかに工場の司令塔である車両工務部長に就任した。

米国赴任中、ゼネラル・モーターズの関連会社で職場体験などをした(中央が片山氏)

工務部長になり立ての頃、工場を歩いて驚きました。いすゞ自動車は2度のリストラで多くの従業員が現場を去っていました。にもかかわらず生産ラインは混乱もなく、製品が粛々と出荷されていたのです。ライン長に理由を尋ねると、近くに置いてあった作業手順書を指さしました。治具の取り付け方のコツなど長年の経験から生み出されたノウハウがびっしりと書き込まれていました。多くの人が会社を辞める前に後輩や会社のためにと、有給休暇を返上して退職日の直前まで作業をしてくれたのです。

その後、川崎工場から大型車のラインを藤沢工場に移転する大仕事に取り組みました。工場を止めずに短期間で移転するという難題を実現し得たのは、苦難を経験した社員が「やるしかない」と一致団結できた証しです。

■いすゞは再生し、挑戦する段階に入った。

井田義則元社長、細井行前社長を中心に徹底したコスト構造改革を推進し、いすゞは再生を果たしました。ただ、苦しい時代が長く続いたので、新しいことに取り組むのが苦手な社員も少なくありません。トラック業界は事業構造が変化し、自動運転など新たな技術革新が求められています。好奇心が旺盛でとんでもない仮説を立てる意欲を兼ね備えたような人材が、今のいすゞには必要です。今後も挑戦や創造を止めない会社にしていきたいと思います。

<あのころ>
2000年代前半、いすゞは業績不振で1万人規模の人員削減を断行、銀行や米ゼネラル・モーターズの支援で大規模な構造改革に着手した。乗用車部門から撤退し、商用車に経営資源を集中。ディーゼル車の排ガス規制強化による商用車の買い替え需要も重なり、復活を果たした。

[日本経済新聞朝刊2017年2月28日付]

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