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孫子の「商法」

花王の「ひっそり買収」戦略 威張らない親会社の兵法

2017/8/1

企業のM&Aで親会社が子会社の独立性やブランドを尊重するケースが目立ってきた PIXTA

 黙っていては売れない時代になったせいか、自らの商品やサービスの名を声高にアピールする広告が増えました。今回はその逆に、自らの存在を「隠す」ことで事をうまく運ぶ作戦についてご紹介しましょう。

 メジャーリーグの名門球団ヤンキースのショートだったデレク・ジーター。彼はすでに引退していますが、あの松井秀喜と一緒にプレーしたこともあり、日本でもおなじみの選手です。引退前には彼の最後の勇姿を一目見ようとするファンで球場は超満員になりました。

 トッププレーヤーとしての才能、成績もさることながら、その人間性でチームメイトやファンから愛されたジーター。彼は「ザ・キャプテン」の愛称で呼ばれていました。

 そんな彼の引退セレモニー後の記者会見で少々のハプニングがありました。机の上にずらりと並べられた録音用の携帯電話の1台が鳴り始めたのです。それは会見にやってきた女性記者のもの。おそらく彼女はパニックになったはず。しかしジーター、ここで焦らず騒がず、その電話を手に取るや、「あとでかけ直すね」と見事な一言。ピンチを笑いに変えるユーモアを持ち合せているのがザ・キャプテン。焦った女性記者の目は、ハートマークになったことでしょう。

 そんなジーターは、負け試合のインタビューは最後まで丁寧に受けるものの、勝ち試合ではさっさと帰ることが多かったようです。「きょうは僕以外にも活躍した人がいるから、そっちに脚光を当ててくれ」とザ・キャプテン。この控えめな態度が人をひきつけるのでしょうね。

 ここ一番のチャンスに強いバッティング技術、そしてピンチに動じないユーモア、さらにはあえて自らの気配を消すことで周りを盛り上げるキャプテンシー。もはや凡人にはまねのできない領域ですが、せめて最後の「自らの気配を消す」ことぐらいは心がけたいと思うのです。

 自らが前に出すぎることなく、あえて存在を隠すことで組織に「勢い」をつける。その心得は、あらゆるコミュニケーションやビジネスシーンに応用できそうです。自らの存在をアピールすることが当たり前になった世の中だからこそ、周りとは違う「一歩引いた」姿勢のほうが好印象を生むかもしれません。

買収してもことさらにはアピールしない理由

 たとえばM&A(合併・買収)。どこかの会社が別の会社を買収して傘下に収めたとしましょう。その際、買収した親会社は「私たちが買収しました!」と前面に出ないほうがうまくいくことがあります。

 我が国の化粧品業界で高いシェアを誇るカネボウ化粧品。この会社は花王の100%子会社です。経営や会計の世界に詳しい人はこの事実を知っていても、カネボウ化粧品の商品を使っている人のなかにはご存じでない人も多いはず。

 花王がカネボウ化粧品を100%買収したのは2006年のことです。財務体質が良好な花王は、自ら高級化粧品ブランドを新たに立ち上げる余裕は十分にありました。しかし、それには時間が掛かるし、もともと花王が持っている「親しみやすさ」のブランドイメージが、「高級化粧品」を立ち上げる上で邪魔になりかねません。そこで、すでに高い人気を誇るカネボウ化粧品を買収する手に出たわけです。さらにはこの買収と同時期に、イギリスの高級化粧品ブランドであるモルトン・ブラウンも買収しています。

 いずれについても100%親会社となった花王は「花王カネボウ」や「花王モルトン」と社名を変更することもできたはず。しかし、そんな社名変更は行われませんでした。既存のユーザーや被買収会社の社員の気持ち、将来の売り上げへの影響などを考慮して、「あえて気配を消す」選択をしたのでしょう。

 もうひとつ近い事例をご紹介します。日本人にも人気の高いゴディバ・チョコレートですが、ゴディバの親会社はどこだかご存じですか?

 答えは、トルコの食品会社であるユルドゥス・ホールディングスです。もともとベルギーから始まったゴディバですが、アメリカ進出にあたって、キャンベル・スープで有名な米キャンベル社の傘下に入りました。その後、キャンベル社がユルドゥスに売却しています。

 まさかゴディバがかつてキャンベル・スープの傘下であり、その後、トルコに売られたとはゴディバ・ファンもご存じなかったでしょう。でも、それでいいのです。親会社としても純粋にチョコレートを楽しんでもらったほうが好都合のはず。このように、M&A時代には「え、まさか、あそこが親会社?」という事例が山ほどあります。

リーダーは一歩下がって、部下をもり立てるほうがよい場合もある PIXTA

リーダーは己を消し、部下を持ち上げる

 そんな「あえて気配を消す」戦略について、私は孫子の兵法の有名な一節を思い出します。

 それは「兵は詭道(きどう)なり」。いわく「戦争はだまし合いである」。身もふたもない名言ですが、これについては、もともと孫子の兵法が「勝つことより負けないこと」を目指すことと深く関係します。

 戦いにおいて人が死んでしまうと、生き返ることがない。国が滅んでしまうと再起することはきわめて難しい。だからこそ目先の勝利にこだわりすぎることなく、長期的な平和や繁栄を優先すべきである。これが孫子の基本姿勢。そのためには正々堂々と正面から戦うのではなく、できるだけ敵の油断を誘ったほうがいい……これが「兵は詭道なり」の精神です。戦争であれば「戦う気がないですよ」「戦力は弱いですよ」と、実力を隠す詭道によって敵の油断を誘うほうがいい。

 これをビジネス的に考えれば、あまり声高に自らの存在をアピールすることなく、あえて社名を消して顧客との関係を築くM&Aに通じるところがありましょう。

 コミュニケーション全般で考えれば、自分の立場が上だからと威張るのではなく、自らの気配を消し、あえて部下を持ち上げるジーター的なリーダーシップのほうがよさそうです。

 こう書きながら、だんだん気分が暗くなってきました。すぐ仕事で威張り散らし、飲み会でも自慢ばかりしている私のような小者こそ気を付けねばならぬのが本日の内容です。

 実力、ユーモア、そして「組織の勢い」のために自らの気配を消すこと。どれひとつとっても「ザ・キャプテン」への道のりは遠く険しいですが、精進したいと思います。もし同じく反省の気持ちを抱いた読者がいらっしゃったら、せめてきょうの飲み会で「自慢しない」よう心掛けましょう。千里の道も一歩から。がんばりましょう、ご同輩。

「孫子の『商法』」は火曜更新です。次回は2017年8月8日の予定です。

田中靖浩
 田中公認会計士事務所所長。1963年三重県出身。早稲田大学商学部卒。「笑いの取れる会計士」としてセミナー講師や執筆を行う一方、落語家・講談師とのコラボイベントも手がける。著書に「良い値決め 悪い値決め」「米軍式 人を動かすマネジメント」など

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