多くの日本人に愛される洋食。もともと多くはヨーロッパから伝わった料理を日本人の口に合うようにアレンジし、日本食として定着したもの。フレンチやイタリアンとはもはやまったく別の料理のカテゴリーとして市民権を得ている。
カツ丼は和食か洋食かと問われると、和食と答える人が多いだろう。卵とじのイメージが強いためだろうが、そのためかソースカツ丼は卵とじカツ丼から派生した丼だと思っている人も少なくない。
しかし卵とじカツ丼とソースカツ丼は全く別の道筋で進化を遂げ、現在に至ったものだ。
カツ丼発祥については3つの説があり、全て早稲田界隈で生まれたとされている。

【説1】大正2年(1913年)、現在福井に本店を構えるヨーロッパ軒の初代店主高畠増太郎氏が、ドイツでの料理修業を終え東京で開かれた料理発表会でソースカツ丼を披露し、その後、早稲田鶴巻町の自店で提供を始めた。
【説2】 大正10年(1921年)、早稲田高等学院の中西敬二郎氏がカフェーハウスという学生がよく出入りしていた店で厨房に入り、ポークカツレツを小さく切り、どんぶり飯にのせ、ソースを煮詰めて上からかけ、これをカツ丼と名付けた。

【説3】大正7年(1919年)頃、早稲田の三朝庵で、宴会で余った当時高価だったカツを、冷めたものではお客様には出せないのでどうしようかと思っていたところ、学生のアイデアで玉子丼のように卵でとじてどんぶりにのせた。
全て早稲田という点が興味深いが、それなら最も早く提供したのが元祖ではないか、と言うと、事はそう単純ではなさそうだ。それぞれの発祥にはそれぞれ理由があり、しかも形が違っている。およそ100年前の、進取の精神があふれていた早稲田界隈で、様々なアイデアが生まれたロマンに思いを馳せてみたい。
さて今回のテーマだが、この早稲田カツ丼発祥説に対して、ほとんど知られていないが、実はもうひとつの発祥説がある。1995年9月付けの地方紙「山梨日日新聞」に、明治30年代後半には甲府のそばの老舗「奥村本店」でカツ丼が提供されていた、という記事が掲載された。
歴史を語る前にまず、甲府のカツ丼について説明しておきたい。
甲府のカツ丼はいわばカツライス丼。卵とじは「煮カツ丼」と呼ばれる。卵でとじないカツ丼は各地に点在するが、全てソースなりしょうゆなりで味付けされた状態で提供される。しかし全国でほぼ唯一、甲府では揚げたままのトンカツが丼にのって出てくる。