あぐらかいた商売のバブル期 店舗改革で上司と衝突JTB会長 田川博己氏(上)

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JTBの田川博己会長(68)は日本交通公社(現JTB)に入社、温泉地で有名な大分県別府市の支店に配属された。

振り出しの仕事は現地を訪れる外国人客のあっせんです。外国人の荷物運びが最初の仕事でした。昨年、訪日外国人が日本人出国者数を45年ぶりに上回りましたが、1970年の大阪万博の頃は訪日客の方が日本人の海外旅行者よりも多かったのです。

入社3年目。本社の国内旅行部で旅行商品の企画に携わることに。

たがわ・ひろみ 1971年(昭46年)慶大商卒、日本交通公社(現JTB)入社。2000年取締役などを経て、08年に社長就任。14年から現職。東京都出身。

先輩とともに数々の商品企画に取り組みました。有名ホテルにお願いし、宴会場を受験生の勉強部屋にしてもらった「受験生の宿」。経済の安定成長期に入り多様になってきた消費者ニーズに合わせ、最高級から低価格まで各種宿泊プランもつくりました。

しかし、多様な宿泊プランをつくるのに、当初は苦労しました。「旅路クーポン」と名付けた低価格な宿泊プランでは、参画すれば安い旅館のレッテルを貼られるからと嫌がられ、一方、最高級の「旅情クーポン」は基準が厳しかったため最初は50~60施設しか集まりませんでした。

これらの宿泊プランは旅館などをランクづけして商品化するという現在のJTBの商品の礎となりました。インターネットが普及して旅行予約サイトが台頭しても、扱う商品の形はみな当時のプランと何ら変わっていません。参画施設を探すために全国を巡り、旅館でご飯を頂き、痛風になりかけました。

90年に営業企画課長となり、首都圏の店頭政策などを担うことになる。

時はバブル最盛期。首都圏の店舗を89年度の85店から3年間で100店に増やす構想がありました。東京ならOLが集う青山や高級住宅地の成城などに店を広げようというものです。87年の国鉄分割民営化を受け、それまで駅構内で国鉄と共同で営業していた旅行店から当社が撤退した時期とも重なっていました。

店の統廃合も相当やりました。当時、店の経営はとても遅れていました。国鉄乗車券の販売を独占できた地位などにあぐらをかいていたのです。法人など団体顧客も抱え、個人を相手にする店づくりは二の次。中には顧客の待合スペースが3割にとどまる店もありました。顧客第一主義とはとても言えたものではありませんでした。

JTBが持っていた店舗政策など全ての政策を、若いなりに変えていきたいと思っていました。営業企画課長時代の最大の使命はまさにJTBの店の将来をどうするかを考えること。店舗改革では上司とぶつかることもしばしばです。抵抗も強かった。本当に改革が加速するのは個人向けの店頭営業に特化した会社などを設立した2006年の分社化以降です。苦節何十年。本当に時間がかかりました。

〈あのころ〉
田川氏が課長に就任した1990年、バブル景気が絶頂期を迎え旅行需要も拡大した。青函トンネルなど交通インフラの整備も追い風となった。JTBは国内旅行の主力商品「エース」の累計販売が発売19年目にあたる89年に2000万人に達するなど、国内旅行事業の好調を謳歌した。

[日本経済新聞朝刊2016年6月7日付]

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