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xiangtao / PIXTA

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実印を作るのは、「一人前の大人」になる儀式

「新社会人」が4月入社に向けてそろそろ心と体の準備に入る時期だ。古い話だが、社会人1年目を前に同期入社の連中と顔合わせしたのもこの時期だった。その中の一人が大人びた調子でこんなことを言った。

「俺はスーツ2着と実印を用意した」

「スーツはわかるけど、実印て、何?」

「印鑑登録済みのハンコ。持ってないの?」

「そんなもん、いつ使うの?」

「人生の節目節目、車を買い、家を買い、そのためのお金を借りる。大人になるってそういうことだろ」

「へえ……」

「おかしなやつだなあ」と思ったが、その後の人生を振り返れば、まんざら彼の言ったことが的外れだったわけではないと知った。その後、私は気が付けば、格安中古車を購入し、結婚し、小さなマンションを買うため、住宅ローンを組み、親を見送り、実家の始末をしてと、節目節目で「実印」を押してきた。

「なるほど、実印を持つことは、大人になるための通過儀礼だったんだ……」

「好ましい人柄」を印象づけるための押印テクニック

そんなふうに「ちょっと変わった同僚」のことを思い出したのは先日のラジオ番組でのことだった。全国で使われるハンコの50%を生産する「ハンコの郷(さと)」と呼ばれ「ギネスにも登録」される町が山梨県にある。新年度を控えたこの時期は新たにハンコが購入されるタイミングでもあるらしい。

ご当地の「名匠の一人」とうたわれる望月孝さんにお話をうかがい、「へえ……」とここでも感心してしまった。「話す声」や「書く文字」が「人柄を表す」とはよくいわれるが「ハンコの押し方」にも「人柄が表れる」とおっしゃるのだ。

梶原「好ましい人柄だと思ってもらうにはどうしたら良いんですか?」

「しゃべり」をはじめ、「テクニック」に興味のある私は、いの一番にそう聞いた。

望月「実印など大事なハンコを入れるケースには小さな朱肉がついていますでしょ? あれはよほどの緊急事態以外には使わないこと」

あの狭い空間に詰まっている練り朱肉は、よほどのメンテナンスがされていない限り固まってしまい、一般には使いこなせないという。

紙の下にマットを敷く、意外な理由とは?

望月さんのお薦めは「事務用乾湿インク」。「ポンポンポン」と、印面をそこにやさしく数回タッチさせるぐらいがちょうどよく、付けすぎは印影の「切れ味」を損ね、悪くするとハンコの側面に付着したインクで契約書を汚すおそれがある。こうなると人柄の前に「見識を疑われる」というのだ。

望月「ハンコを押す紙の下に敷くマットもお忘れなく」

きれいな印影を描くためにもマットは大事だが、それ以上に「真摯な態度で押印に臨んでいる」という「気概」を伝えるのにも役立ちそうだ。そして一番強調したのがこれだった。

望月「当たり前ですが、正確に上下を確認して押すことです。そのために、ハンコの上下が即座にわかる『アタリ(削ったしるしや、はめた金属)』を好む方もいらっしゃいます。触るだけで上下を間違うことなくハンコを押せます。しかし『大事な実印だからこそアタリなし』を選択される方も少なくないのです」

せっかく便利なのに「なぜ?」と私は思った。

Graphs / PIXTA

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印鑑を紙に押しつける際の手順と力加減

望月「アタリがないと、必然的にハンコを押す前、上下を目で見て確認します。この作業に数秒かかる。この『間』が大事な気がするんです。『本当に、この書類に、このハンコを、私が今、押してよいのだろか?』――。極めて重要な瞬間を前に自問自答することができます。『ハンコを押す=人生をかけた大きな決断を下すとき』、そんなふうに考えれば、多少の不便を犠牲にする価値はあるんだと思います。そして心をしずめ、力まず、手のひらを、ごく軽く、右にひねる感じでフワッと押してください」

話をうかがったその日の夜。自分がハンコを押したいくつかの書類を広げてみてみた。

「ああ、やっぱり……」

力任せに押したせいで、かえって印影がぼやけている。「押印」という「厳粛な空気」に圧倒され緊張し、「失敗だけはしたくない」とひたすら力んだ痕跡が痛々しい。「確かに、私の人柄はこれ、と言われても仕方がないなあ」。望月さんの言葉をしみじみ思い返した。

長年の友人でもある司法書士にこの話をした。不動産登記など毎日のように重要書類にハンコを押しまくっている彼は望月さんの話に大いに共感し、こんなことを言い出した。

なぜ営業職は印影をわざと左に傾かせる?

「印影は真っすぐに。もちろんそれは基本なんだけど、わずかに左にかしいだ感じは『ハンコがおじぎをしている謙虚さ、人柄の穏やかさ』を表すと昔の人に教えられたことがあるんです」

「ほお」

「逆に右にかしいでいると『ハンコがそっくり返った、尊大な印象を与え、よくない』って」

「じゃ、実際に、左に振った印影で謙虚さを表しているわけ」

「はい。実は、うちのかみさん、某外車ディーラーで長く働いてましたでしょう?」

「知ってる、知ってる」

「実は、彼女も上司に同じように言われて、車の売買契約書のハンコはちょっぴり左傾斜にしていたそうです」

「へえ~!!」

「そういえば、彼女、今でも回覧板のハンコなんか、左傾斜で押してますねえ」

「謙虚、というか、律儀だねえ……」

意図しても、しなくとも、「ハンコの押し方」から我々は「人柄」を感じ取ろうとするものらしい。「ハンコを押す」という「非言語コミュニケーション」は意外に侮れない。

※「梶原しげるの「しゃべりテク」」は木曜更新です。次回は2017年3月2日の予定です。

梶原 しげる(かじわら・しげる)
1950年生まれ。早稲田大学卒業後、文化放送のアナウンサーになる。92年からフリーになり、司会業を中心に活躍中。東京成徳大学客員教授(心理学修士)。「日本語検定」審議委員を担当。著書に『すべらない敬語』など。最新刊に『まずは「ドジな話」をしなさい』(サンマーク出版)がある。

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