辺境から世界を見つめる
世田谷美術館館長 酒井忠康氏
北海道の積丹半島の町に生まれ育ったので、普通の人とは自然や季節の感じ方が違うんですよ。冬は氷点下20度近くにもなる土地で、日本の伝統的な花鳥風月の自然観に、なじめないでいました。床の間にかかる古典的な絵を見ても感銘を覚えない。京都や奈良に行って古い寺や仏像を見ると、さすがに「いいなあ」と思っても言葉が出てこない。あっけにとられて見ているだけです。
これは日本の美術史を研究する人間にすれば、実に困ったことです。東京の大学で美術史を学んでも、まともに研究はしなかった。若いころは、カミュや安部公房、大江健三郎のような人間の不条理を描く作家の小説をよく読んでいました。
安部公房の『箱男』は段ボール箱を頭から被(かぶ)り、のぞき窓から街を観察して歩く男を主人公にした小説です。極限状況の中で、物事を判断する指針を男は与えられない。そんな絶望的状況を描くニヒリズムの視線がすごい。安部公房は、旧満州(中国東北部)で青少年期を過ごした引き揚げ者です。北方の精神を感じます。情緒的な形容詞を使わない文章には、大いに影響を受けました。
さかい・ただやす 1941年北海道余市町生まれ。慶大卒業後、神奈川県立近代美術館に勤務。同館館長を経て現職。著書に『海の鎖』『早世の天才画家』など。
当時、美術批評家の土方定一さんが館長で、最初はその仕事の手伝いをする学僕でした。土方さんは僕に思想的な骨格がないのを見て、英国の美術批評家ハーバート・リードを勉強するように助言した。原著が1962年に刊行された『若い画家への手紙』は、現代芸術に対する考えを若い画家に宛てた手紙の形で述べた文章に、大いに啓発されました。
土方さんは37歳も年上ですが、若い人の発想を大切にする人でした。発想が斬新で、生命力があり、感度が高い人を重んじる。後に近世日本美術史研究の第一人者となった辻惟雄さんが若いころ、鎌倉の美術館に訪れた折、岩佐又兵衛についてしゃべっていると、「おお、君それやろうよ」と展覧会を開かせてしまう。部下の私に対しても、やがてスパーリングの相手のように接するようになり、議論の中では上下の別がなくなってしまう。そんな人でした。
『土方定一著作集』は、その仕事を集大成していますが、第1巻に収録された「画家と画商と蒐集(しゅうしゅう)家」は、画家や美術作品を取り巻く社会に目を向けた先駆的仕事で、土方さんの開拓者精神が伝わってきます。
江戸中後期の画家、著述家だった司馬江漢の『江漢西遊日記』は、何度読んでも面白い。日本に西洋風の銅版画や油彩画の普及に努めた画家が、西洋文明との窓口だった長崎への旅の様子をつづった日記ですが、自分でつくった銅版画を遊女に、のぞき眼鏡で見せたり、洋風の油絵を描いて見せたりする。庶民に新しい世界観を、伝えようとするわけです。時代を変革しようという好奇心と気概に満ちていて、こういう人物に出会えるのが、歴史を学ぶ喜びです。
鶴見俊輔『限界芸術論』には、刺激を受けました。鶴見さんは、純粋芸術と大衆芸術のほかに「限界芸術」の領域を設定し、傍流にあるもの、辺境に属するものに注目した。絵馬や羽子板、盆踊りや花火といった芸術と生活の境界線にあるものに、美の種を見いだしています。美術史を専攻し、純粋芸術しか頭になかった身には、「これだ」と思いました。
座右の書は『エリック・ホッファー自伝』でしょうか。サンフランシスコで二十数年間、港湾労働者をしながら、思索を続けた人です。大学でも教えないし、家庭も持たない。図書館で本を借りて深く勉強するけれど、分かってしまえば次には新しいテーマに取り組む。一旦積み上げた思索に対して全部捨ててしまってもいい、という覚悟がある。この潔さは「はぐれ学者」の憧れです。
今、美術館も経営感覚が求められる時代で、失敗を恐れて従来の物差しで判断しがちになる。しかし、飼いならされたものばかり取り立てたら、活気を失います。「一回見て訳が分からないものでも無視せずに、関心をつなぎとめておきなさい」と土方さんも言っています。野性の回復が必要な時です。