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私の履歴書復刻版

米国並みの研究費をつぎこむ(下) ホンダ創業者 本田宗一郎(16)

2016/9/8

 36年(1961年)6月、こんどは西独のハンブルクにヨーロッパ・ホンダを設立した。ここでも米国と同じ理由で日本人はたった2人だけ、あとは全部現地人を採用した。さらに、ことしの正月から7、8人の調査団を派遣してEEC(欧州共同市場)への進出地点を調べさせていたが、その結果ベルギーの首都ブリュッセル西方20キロの地に現地工場を建てることにした。認可もおりたので7月18日関係者が渡欧、38年2月から月産1万台の本格的生産にはいる計画でいる。

 ベルギーでの現地工場建設は、EECのどまん中に乗り込んだことになる。そこで西独やイタリアの業者は非常に脅威を感じて見守っているが、私はすべて思想によって技術をみちびく方針をとっている。つまり、技術よりも思想を先行させるのである。たとえば、こんどは利用者の好みも体格も規則も違うのだから、いままでのと全く違った新しいデザイン、構造でのぞまねばダメだ。

 ベルギーでどんなオートバイを作ったらいいか、その設計中にこんなことがあった。ベルギーはほこりが少ないから空気清浄器は不用だという結論が出たとき、私は即座に反対して変更させた。

 いったいベルギーに工場を建てるのはベルギーのかねを日本に持ってくるためだろうか。そんなケチな了見ではベルギーの人たちにきらわれ海外企業は成功しない。現地に工場を建てたからにはまずその土地の人を富ます方法を考えねばならぬ。そうすればベルギーからオランダ、ルクセンブルクなどのベネルックス3国はじめEEC諸国にもどんどん輸出できるようになる。またベルギーはアフリカに非常な権益を持っており、アフリカへ輸出することも当然考えねばならぬ。とすれば日本よりほこりっぽいアフリカに適するもの、つまり空気清浄器は絶対に必要不可欠なのである。こういうところに単なる技術でなく、それを指導する思想が必要なのだ。

 前にもちょっと述べたが、35年(1960年)7月に私は本田技術研究所を独立の別会社として設立した。すべて研究というものは失敗の連続であり99%以上は失敗と覚悟しなければならない。そういうものを本田技研工業というあくまで生産オンリーで利潤を追求する会社の中に置くと、どうしてもママッ子扱いされがちになる。それではりっぱな研究を続けることができないので別会社にしたのである。

 もう一つの理由は生産の流れの中にはいっていると組織というものを非常に大事にするが、研究所は組織よりも個人の能力を発揮させることが大切であり、問題である。とすれば当然組織も生産会社とは違ってこなければならないからである。

 つまり研究所は本田技研の売り上げの3%(年間20億円)をもらってその見返りに青写真を本田技研に売る。もし研究所のミスによって技研が損をした場合には全部研究所の責任においてそれを負担するしくみであり、博士養成を自慢している他の研究所とは大いに違う。研究員は現在660-70人おり、毎月約1億8000万円ぐらいの経費を使って運営されている。研究費の額は米国の場合、売り上げの3.1%、西独が2.4%、日本はコンマ以下でその代わり交際費が多いという話を聞く。私のところでは交際費はきわめて少ないが研究費は米国なみである。いや、研究というものは資材などよりも人件費に比重がかかるものであるから、米国より人件費の安い日本での3%という数字は、実質的には米国を上回るわけである。

 35年8月三重県に鈴鹿製作所を建設した。私と藤澤専務が鈴鹿市長に会って風水害にもだいじょうぶな高台を選定したのが前年の8月、それから1年後には操業にはいっているという突貫工事だった。浜松工場もそうだが無窓、無じん、冷暖房のエアコンディション完備の工場である。重役室は冷暖房しても機械工場にエアコンディションなど不用という人もいるが、じんあいに対してそんな神経ではりっぱな技術が発揮できるわけがない。また働きよい環境にするのは経営者の義務でもある。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月26日付]

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