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私の履歴書復刻版

国際レースに勝ち世界一へ ホンダ創業者 本田宗一郎(14)

2016/9/8

 さて、英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ関係者が集まり技術を競うTTレース(ツーリスト・トロフィー・レース)というのがある。420キロを一気に突っ走るたいへんなもので、ここで優勝することはオートバイ関係者の夢であり、誇りともなっている。そこで私もこのレースにいどもうと決意、29年(1954年)3月、このレースに参加する旨、代理店の人たちに宣言した。

英国マン島のTTレース

 これは2つの意味があった。1つはこのTTレースに参加して優秀な成績を得ないかぎり、世界のオートバイ市場をイタリア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、先に私が目標を決めたような技術のレベル・アップによる輸入防止の念願達成はできないということ。もう1つは、少しセンチメンタルかもしれないが、敗戦直後の日本人の心にほのぼのとした希望を与えてくれた古橋広之進選手の水泳における大活躍を思い出したのである。

 汽車の窓ガラスを破って乗り降りしたようなあのすさんだ時代に、彼の世界一の記録はどれほど国民を慰め勇気づけたかしれない。私には古橋選手のような体力はないが技術というものを持っている。技術つまり頭脳による勝利がどんなに日本人に大きな希望を与えることか、ことに若い層に与える影響は大なるものがあろう。しかもダイナミックなグランプリ・レースだから、ここで優勝すれば輸出が有利になるのもさることながら、日本人としてのプライドを持たせることができると考えた。

 そこで、29年6月、ようすを見に英国のマン島に行ったのだが、私はこのレースを実際に見てビックリした。ドイツのNSU、イタリアのジェレラーなどという優秀なレーサー(競走車)がものすごい馬力で走っている。同じ気筒容量でも、当時私の作っていたオートバイの3倍もの馬力である。これはえらいことを宣言してしまった。希望が達成されるのはいつの日のことやらと半ば悲観し、半ばあきれてしまった。

 レースを初めて見てビックリするやら悲観するやらの私ではあったが、すぐ持ち前の負けぎらいが頭をもたげてきた。外人がやれるのに日本人にできないはずがない、そのためには1にも2にも研究をしなければと考えて、帰国後さっそく研究部を設けた。

 このとき私は英独仏伊など、オートバイ先進国を歴訪して日本になかったレース用のリム、タイヤ、キャブレターなどの部品をごっそり買って持ち帰った。その姿はさながら競輪選手の旅行みたいなもの、はたから見ればおそらく珍妙な格好に映ったに違いない。さあ帰国という段になって、とうとうローマの空港で問題になってしまった。

 飛行機は荷物が30キロをこえると1キロにつきいくらと高い割り増し金をとられると聞いていたし、手持ちのドルは部品購入にほとんど使ってしまった。そこでホテルで苦心して30キロに荷造りし、リムやタイヤなどは自分で背負い、重い金物などはフランス航空でくれたカバンにつめて空港をパスしようとした。ところが空港では、その手持ちカバンも計量するという。これを合わせると40キロぐらいになってしまう。電報できょう帰国と打ったあとは一文も持っていない。これは困ったことになったと非常に弱った。

「来るときはバッグははからなかったのに、どうして帰りははかるのか」と抗議しても、検査員はトータル・ウエートだからといってがんとして聞かない。「トータル・ウエートなら、あの婦人はなんだ。飛行機の座席にはまらんぐらい太っているじゃないか。あれはおれのトータル・ウエートよりずっと重いのにちゃんとパスしているではないか」と逆ねじを食わせたものの、相手は規則は曲げられないの一点ばり。

昭和36年(1961年)ドイツグランプリ・レース、250ccで優勝した日本人ドライバー

 ここで飛行機に行ってしまわれてはたいへんなことになる。えらいことになってしまった、なんとかならないかと、考えに考えたすえ、離陸直前の飛行機の前で超過したカバンを開きカラッポにしてしまった。そして中にあるオーバーやら何やら身にまとえるものはなんでもまとい「さあ、これならどうだ」とやった。これには検査員もビックリした。とうとう「それならいい」と言った。「それならいいとはなんだ。結局トータル・ウエートは同じことじゃないか」とおこってみたがはじまらない。7月20日のローマの熱暑の中で、着ぶくれにふくれ上がった私はフラフラになった。そしてこんどはまた荷物をもとのカバンに詰めもどしだ。ホテルで一晩がかりでギッシリつめたものがそうたやすくはいるはずがない。暑いし、気がせく。あれほど困ったことはない。

 このがんばりもTTレースにどうしても勝つのだという一念があったからこそである。ローマは1日にして成らずというが私は奇しくもそのローマで大汗をかかされたのだった。こうして苦労して持ち帰った部品が、その後大いに役立ったことはいうまでもない。

 帰国後設けた研究部は、それまで製作所などに設計課として分散していたものをまとめたもので、32年(1957年)6月に技術研究所として統合し、さらに35年(1960年)7月、株式会社本田技術研究所として独立した別会社にしたわけだがこれもTTレースが動機で、研究を徹底的に進めようという考えから出発している。その研究の結果、33年に2気筒125cc、4気筒250ccのレーサーが完成した。そこで翌34年6月に125ccでTTレースに初参加したが、このときは6着に終わった。だが初陣に6着は優秀な成績だった。その後、ついに昨36年、TTのグランプリレースに優勝、最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フランス、西独各地で行なわれたグランプリ・レースでも優勝、ここに初志どおり世界一のオートバイを作り上げる野望をとげることができた。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月19日付]

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