出世ナビ

私の履歴書復刻版

バイクからオートバイづくりへ(上) ホンダ創業者 本田宗一郎(9)

2016/9/8

 終戦となってピストンリングの製造は完全にお手あげとなった。東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断然断わって私の持ち株全部をトヨタに売り渡し身を引いてしまった。戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである。またGHQ(連合軍総司令部)の財閥解体、工場解体指令でトヨタも解体されるのではないかといううわさもあり、ここできれいさっぱりと縁を切った。

 トヨタに東海精機を売り渡して得た金は45万円。これを元手に次になんの仕事をしようかと考えたが、なかなか見当がつかない。こんな混乱の時にガタガタしてもしかたがない、1年間ようすを見ようと尺八など吹いて遊び暮らしていた。

 東海精機の工場が残っていた磐田(いわた)にアルコール工場があり、そこで私は思い切ってドラムかんにはいった医薬用アルコールを1本1万円で買って来た。終戦直後の1万円というのはかなりのもの、これをわが家にデンとすえつけ、これを使って好き勝手に自家用合成酒をつくった。そしてしょっちゅう友だちを呼んできては飲んでいた。

 そのころ磐田に警察学校ができ、私は頼まれてそこの科学技術担当の嘱託になった。むろん無給である。だが退屈で困っていた私はいい遊び場所ができたとばかり、例の自家用酒をぶらさげて行って飲んでは将棋をさしたり、オダをあげていた。

 この期間はこれといった仕事もしなかったかわり、遊びながらいろいろなことをやった。みんなが食糧に困っていた時代なので浜松の海岸で電気製塩をやり、塩1升と米1升を交換して喜んでいた。技術屋だから製塩などは良質のものが人より器用にできた。

 そのうち女房らは、私が遊んでばかりいていつまでたっても本気で事業に取りかからないのを見て心配しはじめた。私が敗戦ボケでふ抜けになってしまったのではないかと思ったらしい。しかし、私としては遊んでいてもただ遊んでいたわけではなかった。次に何をやろうかと絶えず心ひそかに考えていた。

 そしてまず私がとりかかったのは織物機械をつくることだった。当時は“ガチャ万”時代といわれるほど織物産地の浜松では織機1台持っていればすばらしい金もうけができた。それほど衣料品が不足していた。だがそのころ使っていた織機はシャットル式という水平往復運動だけの能率の悪い機械だった。そこで私はたてにも動き早い速度で大幅物も簡単に織れるロータリー式の織機をつくってみようと考え、浜松に持っていた600坪(1980平方メートル)ばかりの土地に50坪(165平方メートル)ほどの疎開工場のバラックを買って来て本田技術研究所を設立した。終戦の翌年のことである。

 しかし、さんざん遊んだあげくではあり、資金もたいしてなかったのでとても飯を食う手段にはならない。そこで織機をあきらめて考えついたのがモーターバイクであった。戦争中、軍が使用していた通信機の小型エンジンが付近にゴロゴロしていたのを安く買い集め、それを、自転車につけて走らせたのだ。

 ところがこれがたいへんな評判になった。何しろ交通機関は混乱状態、汽車もバスもその混雑ぶりはいまでは想像もできぬほどだったから、各地の自転車屋さんとかヤミ屋が買いに来て飛ぶように売れた。あまりの好売れ行きに買い込んでおいたエンジンもすっかり手持ちがなくなってしまった。

 もともと機械作りの好きな私は、こうなったらエンジンまで作ってしまえとばかり、爆撃されて放置してあった機械を修理して据えつけ、エンジンの製造にとりかかった。

 資金は父には悪かったが、父が苦心して入手した山林を売りとばして作った。父はそのころナベやカマを作って近所の人に分けてやるなどコツコツ働いていた。

<<第8回 ピストンリング製造に苦闘(下)

>>第10回 バイクからオートバイづくりへ(下)

 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月1日付]

出世ナビ新着記事

ALL CHANNEL