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私の履歴書復刻版

若者と2人で「浜松支店」(下) ホンダ創業者 本田宗一郎(6)

2016/9/8

 27歳のときいまの妻を女房にもらった。そのとき自分で自動車を運転して嫁さんを迎えに行った。女房の村の人たちから「運転手さんといっしょになるの」と女房はたいへんな尊敬のされかただった。そのころ自家用の車を持っている者はそうざらにはなく、運転手も「さん」づけされるほどだった時代である。その披露には、なじみの芸者衆を呼んで、おむこさんの私自身が“つるかめ”を歌いながら踊った。増田常務はじめ集まった人たちはびっくりするやら、あきれかえって物も言えなかった。

事故の瞬間!転倒する車から飛び出しているのが本田宗一郎。昭和11年(1936年)全日本自動車スピード大会で

 だが芸者相手にいま考えるとぞっとするようなたいへんなことを仕出かしたこともある。浜松では毎年5月に「たこ祭り」が行なわれるが、そのお祭りの日に私は友人と2人で料理屋で芸者相手に飲めや歌えの大騒ぎをしたことがある。芸者もこっちも相当酔っぱらっていたが、そのうちに芸者がちょっとなまいきなことを言った。われわれ2人はそれをとがめて「このなまいきやろう」と芸者を料亭の2階から外へほうり投げてしまった。その瞬間、パッと火花が飛んだ。

 外を見ると私の投げた芸者のからだが電線に引っかかっていた。電線はショートして切れ、へやの中もあたりもまっくらになった。私はあわてた。酔いはいっぺんにさめて飛びおりるように外へ出た。そして電線にかかっている芸者の足をひっぱり、やっとの思いでおろした。5月のことで、芸者もわりと厚着していたので命拾いしたが、もしこのとき電線にひっかからずにまっすぐ下の道路に落ちていたら、芸者の命はなかったと思う。そして私はいまごろまだ刑務所生活をしていたかもしれない。もちろん、いまの本田技研もありえなかった。きわどいところで助かったのは私の方だともいえる。

 そのときの芸者は、いま飲み屋のおかみになっており、彼女にはいまだに頭が上がらない。

 こうして若いときにはよく遊んだが、それは決してむだではなかったと思っている。花柳界に出入りしていると、人の気持ちの裏街道もわかってくるし、いわゆるほれた、はれたの真ん中だから、人情の機微というものも知ることができる。私がただまじめ一方の技術屋とはいささか違うところを持っているとすれば、こんなところに元があるといえそうだ。他人にめいわくをかけたり、人の金で遊ぶのはよくないが、若さのあるうちにこういう経験も一度ぐらいはあってもいいのではないか。別に奨励するわけではないが……。

 若いときには仕事のほかにも趣味をかねていろいろな機械を作って遊んだ。機械いじりは元来私の道楽なのである。自分が作ったモーターボートに若い工員や芸者たちを乗せ、浜名湖上を走り回ったものだ。いま、はやっているモーターボートの波乗りなどはとっくの昔にやったこと、私にとっては流行遅れの遊びでしかない。

 暇を見て自分で作ったもので忘れられないのは競走用自動車のことである。東京のアート商会で小僧をしていたとき、主人がレーサー(競走用自動車)好きで私につくってみろという。鍛冶屋の子の私はトンテン、トンテンができる。そこで仕事が終わったあと夜8時ごろから12時ごろまで、水っ鼻をたらしながらやった。初めの数台は砲兵工廠で使っていたダイムラーベンツ・オークランドという古い車のシャシーに乗せて車体を作った。次に千葉県の津田沼にあった飛行学校から払い下げてもらったカーチスのエンジンを改造して2台つくった。このレーサーは非常によく走り1着を取った。そういうことがあったので、私は浜松でも暇を見つけてはコツコツとレーサー作りに余念がなかった。そのうち実地にためしたくてムズムズしてきた。そこで当時東京の多摩川べりで開催されていたオートレースに出場した。はるばる浜松からの遠征である。何回か出場し、ときには優勝するなど相当活躍した。

 それは昭和11年(1936年)7月、31歳のときのこと、同所で行なわれた全日本自動車スピード大会に出場した私は、自作のレーサーを駆ってゴール寸前、時速は120キロをこえた。そして、も少しで優勝というとき横から修理中の自動車がでてきた。アッという間もなく接触した私の車はトンボ返りに三転した。グラッと体が大きくゆれ、視界が逆さになるのを感じた。車からはね飛ばされ、地面にたたきつけられた私はさらにも一度バウンドして気を失った。

 病院のベッドの上で意識を回復した私は、顔中に激痛を感じた。あのサイレンを鳴らす救急車で病院に運ばれていたのだ。顔の左半面がつぶれ、左腕がつけ根からはずれて手首も折れていた。助手席に乗っていた弟はろっ骨を4本折る重傷だった。「よくまあ2人とも助かりましたね」と看護婦はびっくりして言った。そのときの傷跡は左目わきにいまも残っている。

 このときのレーサーはフォードを改造したもの、私の出した120キロのスピードはわが国の新記録だった。それで優勝こそ逸したが、特に優勝トロフィーをもらった。この記録が破られたのはつい最近のことである。人間は妙なもので、2、30キロのノロノロ運転でも命を失う人があるかと思うと私のように猛スピードでの事故でも生きていることがある。全くの命拾いであった。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月20日付]

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