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私の履歴書復刻版

若者と2人で「浜松支店」(上) ホンダ創業者 本田宗一郎(5)

2016/9/8

 アート商会の6年間で、私は一応修理工としての技術を修得、自動車の構造、修理、運転をマスターした。そこで主人も私を信用して下さり、いわゆる“のれんわけ”をしてくれた。こうして郷里に近い浜松に「アート商会浜松支店」という看板をかかげ、一本立ちして自動車修理業を開業したのが私の22歳のときである。

手製のモーターボートを運転して遊んだころ

「アート商会浜松支店」という名前こそりっぱに見えるが、実は私と小僧一人きりというささやかなもの。だが故郷の父は、私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米1俵を贈ってくれた。

 私が開業したころ、浜松にはほかに2、3軒しか修理工場がなかった。開店当初は店主といっても徴兵検査をすぎたばかりの私である。「あんな若僧になにが……」ということでなかなか思うように仕事が得られなかった。しかし、よその修理工場ではなおらなかった車が私のところに持ち込まれてなおったということがちょいちょいあって評判になりはじめ、なんでもなおるというようなうわさまで立つようになった。こうして仕事はどうやら軌道にのり、その年の暮れの31日、勘定を締め切ってみると80円が残った。

 最初の年に、しかも22歳で80円残したわけだから全くうれしかった。そのとき私は一生のうちになんとか1000円ためようと決心した。そして働きまくった。なにしろ機械は大好きで手先は器用だったから、手近なものを改良したり、研究したり、製作するなど仕事には熱がはいった。またそれがおもしろかった。

 たとえば、震災のところでも書いたが、当時はトラックも乗用車も全部車輪のスポークは木製だった。私はそれに目をつけ、鋳物製のスポークを考え特許をとり博覧会へ出したが、この鋳物スポークが非常な好評を呼び、インドまでへも輸出されるほどになった。

 こうして25歳のときには、もう月々1000円もうけるのは軽かった。22歳のとき一生かかって1000円ためようと思ったことが、わずか数年で毎月1000円以上もうかるようになったのだ。工員は50人ぐらいにふえ、工場もどんどん拡張した。そして収入がふえてくるとそれだけに遊びも激しくなり、金をためようという気などはどこかへ行ってしまった。元来がけちけちした遊び方のきらいな性分だ。他人にめいわくをかけず、自分の遊びは自分の金で、という主義なので、その遊び方もいきおいハデなものであった。

 若さと金にものをいわせて芸者を買っては飲めや歌えの大騒ぎをしたり、芸者連中を連れて方々を遊び回った。おかげで長唄、端唄、どどいつなど別に習ったわけでもないのに自然におぼえてしまい、人前でもいくらか聞いてもらえるようになった。

 25、6歳のころには私は自家用車――そのころはお屋敷車といっていた。もちろん外国製――を2台持っていた。その車に芸者を乗せてはよく遊びに出かけたものである。

 あるとき、半玉を乗せて静岡へ花見に行った。したたか花見酒を飲んでその帰り道、車の中でもおかんをして、なお酒を飲みながら運転して天龍川の橋にさしかかった。50銭の渡り料を払って渡り始め、少し行ったところで運転を誤り、あっという間に橋の手すりを二十数本こわして、自動車もろとも天龍川に飛び込んでしまった。完全な酔っ払い運転である。

 だが幸い、橋の高さが低く、車は水ぎわ寸前で止まったので2人とも命は助かった。私は地元の新聞にまたデカデカと出されるのをおそれた。「また」というのは、その少しばかり前に税務署員と払う払わないで大げんかをし、あまりしゃくにさわったのでホースで税務署に水をかけた。つね日ごろ25歳ぐらいの若僧が四十男、五十男顔負けの豪遊をしていたので内心おもしろからぬ気持ちも持たれていたのだろう。翌日の新聞のトップに“アート商会大あばれ”とさんざん書かれてしまった。

 “アート商会芸者を連れて大あばれ”とまたやられてはたまらない。そこで半玉をそっと助け出し、橋の上に押し上げて金を渡し「人目につかぬよう、これでハイヤーを拾って先に帰れ」と言った。だが半玉はまだシクシク泣いて泣きやまない。「どうした」ときくと「はいて来たゲタの片方が見えなくなった」という。

「そんなもの帰ったらすぐ買ってやるから」と言って帰したが、私は自分の持ち物に対する女の執着心の強さというものを、このときほどつくづく感じさせられたことはなかった。

 酔っぱらい運転のあげく、芸者と橋から転落した事件も、どうやら新聞に出ずに済み、ことなきを得たが、この後日談がある。

 私がのちに東海精機をつくり、ピストンリングの製造をやるようになっての戦時中のこと、私と宮本という専務の2人で磐田工場に行くべくバスに乗った。私たちはすわったが、途中から乗ってきたどこかのおかみさんが子供をおぶってつり皮につかまっている。「どうぞ」と言って席を譲ってやった。その瞬間、お互いに視線が合った。「あら、本田さんじゃありませんか」「いや、どうも、これはしばらく」天龍川にいっしょに飛び込んだあの半玉との再会というわけである。間もなくバスが天龍の橋を渡ったとき「ここだったわね」とおかみさんは言った。私もあの晩のことをなつかしく思い出した。

 だがそばにいた宮本専務にはなんのことかわかるはずがない。あとで「ここだったわね」とはいったいなんのことだと私を責める。それまでだれにもないしょにしていたこの事件は、このときはじめてご披露に及び、逐一当時の模様を話して腹をかかえたしだいだった。

 青年団に自警団があって、冬になると夜11時から朝の5時まで夜回りすることになっていた。私もそのメンバーの1人として当番を勤めた。だが私の夜回りはふるっていた。私の番になると若い芸者衆が集まり、1人は先頭を歩いて拍子木をたたく。私の左右両側には2人がぴったりつき添って静まりかえった往来を大きな声で歌いながら回った。家にはもう1人の芸者がおカンをつけて待っている。帰ってくればあつくなった酒でさあもう一杯というぐあい。まことに豪勢な夜回りだった。町内の長老たちからは「本田さんの夜回りは大勢で回るから安心できてけっこうだ。だがなんとも騒々しくていけない」といわれたが、なるほどそれに違いはなかった。

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>>第6回 若者と2人で「浜松支店」(下)

 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月16日付]

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