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私の履歴書復刻版

小僧っ子から神様へ ホンダ創業者 本田宗一郎(4)

2016/9/8

 私のアート商会時代は6年続いた。その間、悲喜こもごものいろいろな苦闘談、失敗談を残した。

 私はいなか出だし、こづかい銭もたいして持ってなかったので、遊びに行くといってもせいぜい浅草ぐらいなものだった。ある休日、浅草に行こうとすると、兄弟子が「オイ、電車にただで乗せてやる。おれのあとについてこい」と言う。「電車から降りるとき、おれのあとにくっついて右手のこぶしをあげ、親指をうしろに向けてさしながら降りるんだ」というのである。浅草に着いて兄弟子が先に親指でうしろをさしながら電車から降りて行った。そのすぐあとを私も兄弟子にいわれた通りこぶしの親指を曲げて降りた。うまくいったと思った瞬間、車掌に「もし、もし」と呼び止められた。無賃乗車計画はみごとな失敗だった。それもそのはず、私のうしろからはだれも降りてこなかったのである。結局、兄弟子の分まで払わされた。

本田はアート商会の徒弟時代、主人の榊原兄弟を手伝ってレーサーのカーチス号をつくり、レースにはライディングメカニックとして同乗し、大正13年(1924年)11月23日の第5回日本自動車競争大会で優勝した。中央が本田宗一郎。左はアート商会経営者・榊原郁三氏、右はドライバーの榊原真一氏

 浅草で思い出すことはスイカである。そのころ浅草へ行って何か食べるのが楽しみの一つだった。といっても屋台みたいな店でせいぜい10銭ぐらいのものを食べるのが精いっぱいだった。給料をもらってまだ間もないある日、兄弟子と「きょうは少しは金がある。一つシナ料理を食ってみようじゃないか」というわけで話が決まり、ちょっとしたシナ料理店にはいった。

 2階の席に着いてまず目に映ったのが、おさらに大盛りにのせてあるみごとな切ったスイカ、実にうまそうなスイカだった。おさらに乗っている以上、当然食っていいのだろうと思い、2人で遠慮なくパクついた。ベラぼうにうまい。こんなに食べて、あとで高い金をとられるかもしれないと心配していると、女中がはいって来て「あらっ」と言った。「ここにあったスイカを食べたのですか」と言う。「そうだ、うまいスイカだが、どうしたというんだ」と聞き返すと、なんとそれは“ハエ寄せ”のスイカとわかった。ハエが群がりつくくらいだから味はよかったに違いないが、とたんにぐっと来てしまい、さすがにあとから注文したラーメンはのどを通らなかった。まことにお恥ずかしい失敗談ではある。

 私の実家は鍛冶屋、自転車と機械に縁があり、私ももともと機械いじりが好きなたちだったので、自動車の修理をやらされるようになっても、技術の習得が早く、進歩がいちじるしかった。そこで主人も私を一人前の修理工として認めたのだろう、1人で外部に出張する機会を少しずつ与えてくれるようになった。

 ある夏の日、主人に「神田先の九段でギアが欠けてエンコしているから行ってこい」と言われた。自転車に乗って現場まで行き、その車のギアをはずしてみると、工場に持って帰らなければ修理できないことがわかった。そこで油が真っ黒についたギアを自転車のうしろにしばりつけ、鼻歌まじりで本郷への道を急いだ。夕方であたりは暗くなりかけていた。自転車に灯をつけずに水道橋まで走ってくると、物かげにかくれていた真っ白い服、真っ白い手袋にサーベル姿のおまわりさんに「オイ小僧、ちょっと待て」と呼びとめられ、うしろに積んだギアを押えられてしまった。

「電気もつけずに乗ってはダメではないか。ちょっと交番までこい」こちらを小僧と見てか、巡査はすこぶる高飛車である。その巡査が交番の明るいところに来てびっくりした。真っ白い服、真っ白い手袋が哀れ無残にも真っ黒けである。しまったと思ったおまわりさんは「オイ小僧、なんでそんなものを乗せて来た」とカンカンな怒りよう。おかげで「オイ小僧」「オイ小僧」の連発で、私はさんざん油をしぼられた。

 工場では私がいつまでたっても帰らないので電話をかけるやら、捜しを出したりして大騒ぎになった。主人も兄弟子も私がいなか者なので、まい子にでもなったと思ったらしい。とうとう捜しに出た兄弟子が、交番の中でおまわりさんにどなられている金モール姿を見つけ「どうかご勘弁のほどを」とわびを入れてもらって、やっとの思いで逃げ帰った。当時の作業衣はたいてい外国からの古着で、将校服のようにところどころ金モールがついていた。私もそれを着ていたのである。

 私が18歳のとき、主人から盛岡へ出張して消防自動車をなおしてこいと命ぜられた。年こそ若かったが、腕の方は認められていた証拠だろう。喜び勇んで盛岡まではるばる汽車で乗り込んだが、着いてみるとむこうの消防団長はじめ関係者は妙な顔をしている。「こんな小僧に何ができるんだろう」とむしろ当惑顔さえしている。まるっきり小僧っ子扱いされた私があてがわれた宿のへやは女中べやの隣であった。そして自動車をどんどんばらしていくのを見て、こわされてしまいはせんかとハラハラしながら言った。「小僧さん、そんなにしてだいじょうぶかね」と。

 そんななかにあって黙々と作業を続けた私は3日目にまた元通り組み立てを終わった。そして試運転のエンジンをかけると消防車のエンジンはみごとに動き出した。「おい、みんな動くぞ、水が出るぞ」と団長らはびっくりするやら驚くやらである。私もこのときばかりは得意満面だった。これまでバカにしていた人びとの目が急に尊敬の色に変わった。

 その日の夕方、旅館に帰ると、へやは女中べやの隣から床の間のついた1等室へ替えられていた。現金なものだ。けさまでの小僧扱いから、一躍神さま扱いへの変わりようである。こんな3段とびの待遇改善に、こんどはこっちの方がめんくらってしまった。お銚子(ちょうし)が出る、女中が出て来ておしゃくもしてくれる。酒を飲むのもはじめて、まして女の人からおしゃくをされるなどなおさらのこと、さかずきを持つ手がガタガタふるえて止まらなかった。

 私もそのころはまだ純情そのものだった。いまにして思えば、最初の女中べやの隣室は全く地の利を得ていたわけで、残念だったと思わぬでもない。だがそれよりもいっそう身にしみて感じたのは“技術”のありがたさ、貴重さであった。

 東京に帰り、この報告をすると、主人もとても喜んでくれた。そんなことで主人も私の技術を高く買うようになり、私も精いっぱいの奉公を続けた。徴兵検査では色盲と誤診されて甲種合格を免れたので、さらにもう1年お礼奉公をした。

<<第3回 自動車修理工場に見習奉公

>>第5回 若者と2人で「浜松支店」(上)

 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月13日付]

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