出世ナビ

私の履歴書復刻版

自動車修理工場に見習奉公 ホンダ創業者 本田宗一郎(3)

2016/9/8

 私は前まえから自動車修理工場で働いてみたいという希望をもっていた。それにアート商会という名前がなんとなく、ハイカラに思えた。そこでさっそく弟子入りしたいむね手紙を出すと、間もなく「使ってやるから上京しろ」という返事が来た。待望の念願がかなって私は胸をおどらせた。長男の私を遠い東京へ手放すことには母はあまり賛成でなかったが、父はなっとくしてくれた。そして高等科を卒業すると、私はおやじに連れられ、たった一つの柳行李(やなぎごうり)をかついで浜松から汽車に乗り上京した。大正11年(1922年)の春だった。

アート商会時代。関東大震災後、車の修理のため東京の焼け野原を駆け回る。大正12年(1923年)

 アート商会は東京の本郷湯島5丁目にあった。いなかから出て来て生まれてはじめての東京に目を見はった父と私は、ようやく目的のアート商会をさがしあてた。そこの主人榊原侑三という人に会って私のことを頼んだ父は安心してすぐいなかに帰っていった。私も満足して父を通りまで見送った。私は自動車修理工場のデッチ小僧になったのだ。

 ところが、私がいだいていた夢と現実とは全く違っていた。故郷を離れ、東京の土を踏んだときは燃えるような希望に胸をふくらませていた。だが事実は、来る日も来る日も主人の赤ん坊の子守りしかさせてもらえなかった。背中がじんと暖かくなると赤ん坊のおしっこだった。すると「本田の背中にまた世界地図が書いてあるぞ」と兄弟子たちからバカにされ、からかわれた。私はデッチ小僧というものは最初はみんなこういうものなんだと観念し、歯を食いしばってがまんした。

 来る日も来る日も子守り、手に握らされたものは夢に見た修理道具のスパナではなく、ぞうきんだけだった。失望と情けなさに、私は何度柳行李をまとめ、2階からロープを伝って逃げようと思ったことか。そのたびに故郷のおやじの怒る顔と、おふくろの泣く姿が目に浮かんで決意が鈍った。

 こんな毎日が半年ほど続いた。アート商会は東京でも数少ない自動車修理工場の一つで、なかなか繁盛した。ある日「小僧、きょうは忙しくてしょうがないから、こっちへ来て手伝え」という主人の声がした。私は夢ではないかと自分の耳を疑った。うれしかった。大雪の降った寒い日だったが、私は寒さも忘れ、無我夢中でポタポタしずくの垂れる自動車の下にござを敷いてもぐり込んだ。ワイヤの切れたアンダーカバーの修理だった。

 これが私が初めて自動車修理をしたときで、そのときの感激は一生忘れることができない。それからというものは、多少は主人に認められはじめ、いやな子守りは少なくなって、修理工としての仕事を多くするようになった。あとで考えると、やはりあのとき子守りで半年間がんばったことがよかったのだと思う。あのときの苦労と喜びを思い出せば、どんな苦しさでもけし飛んでしまう。長い目で見れば人生にはムダがない。

 デッチ奉公をはじめてから1年半ばかりたった大正12年(1923年)の9月、関東大震災が発生した。そのとき私がまっさきに飛びついたのは、なんと電話だった。電話が非常に高価なものと聞いていたので、ドライバーで電話機を取りはずし持って逃げようとしたのである。

「電話機だけ持って出てもなんにもならん。それより早く自動車を出せ。運転のできる者は1台ずつ運転して安全な場所へ運べ」と主人がどなった。地震と同時に諸方から上がった火の手はアート商会にも迫ってきた。修理工場には預かった車が何台かあった。私は内心しめたと思いながら修理中の自動車に飛び乗って街路に出た。街路は群衆でごった返していた。その間を縫ってあぶなっかしかったが、私は初めて自動車を運転した。それは私にとって何にも替えがたい喜びであり、機会であった。

 震災でアート商会が焼け、主人一家と神田駅近いガード下に移転した。その隣に食料品会社の倉庫があり、私たちはそこから焼け残りのかん詰めを持って来て飽きるほど食べた。

 そして暇さえあるとオートバイに乗って焼け野原の町中に出た。焼け出されていなかに帰るのに困っている人たちをサイドカーに乗せて板橋あたりまで乗せてやると、礼金をたくさんくれた。その金で農家から米を買って来たこともあった。いなかの両親にはいちおう無事でいることは知らせたが、毎日のように乗り回すオートバイがおもしろくてたまらなかった。

 15、6人いた修理工はほとんどいなかに帰り、主人一家のほかには兄弟子と私の2人しか残っていなかった。主人は芝浦の工場で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けてなおしはじめた。材料も満足なものがなく、いま考えるとインチキ修理だったが、ともかくニューのように塗装を終え、体裁を整えて組み立てるとりっぱにエンジンがかかった。いちばん困ったのはスポークである。当時、自動車の車輪は皆木製のスポークを使っていたので、火事にあうと何も残らなかったのだ。

 自動車運転、オートバイ散歩、修理技術をおぼえるなど、私にとってはむしろ震災さまさまだった。

<<第2回 浜松在の鍛冶屋に生まれる(下)

>>第4回 小僧っ子から神様へ

 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月9日付]

出世ナビ新着記事

ALL CHANNEL