アワビ、刺し身もステーキも 「キングオブ貝」の底力
「適当にナイフを入れて、そのまま力まかせに奥までグイグイ押せばいい」
房総の実家からは時折、海産物のつまった段ボール箱が送られてくる。不肖の娘に送る現物支給であるがゆえ、たいていは魚の干物や房州ヒジキ、海苔などの、安価で日持ちのするものばかり。
だが、ある時どうしたわけか、生きたアワビが送られてきたことがあった。
さあ困った。地元では慣れ親しんだアワビであるが、生きたものをおろすのは初めて。そのまま酒蒸しやステーキにしてしまうというのが楽なのはわかっているのだが、どうしても刺身で食べたい。自分でさばきたい。
そこで親に電話した結果が、冒頭の「適当にナイフを入れて...」という、つれない返事だったのだ。
味も値段も、数ある魚介類の中で最上級に位置するアワビ。ゆえに東京ではなかなかご縁がないのだが、房総へ帰るとやはり身近である。
地元の旅館でアワビを置いてないなど考えられないし、実家の花壇の縁取りはアワビの殻。先輩のやっているバンド名は「アワビーズ」といった具合だ。
また実家すぐ近くの高家神社で年に数回奉納される「包丁式」も、通常は魚やキジを使うところ、解禁日に近い5月にはアワビを使ったものになる。1年のアワビ漁の安全と豊漁を願うためだ。
さらに房総名物なめろうも、実はアワビと密接な関係がある。
なめろうは焼くと「サンガ焼き」という名前になるのだが、ただ焼けばいいのではない。アワビの殻に入れて焼くのが正式なのだ。
海と山が接近した房総では、漁師たちも山や畑を持って仕事をすることが多い。
山へは、アワビの殻に詰めたなめろうを2つ合わせ、ヒモでくくってお弁当にする。さすがに生ものをそのまま食べるわけにはいかないので、殻ごと焼いてから食べる。
そう、サンガとは「山家」のこと。山の家で焼いて食べるから、サンガ焼きというわけ。アワビはお弁当箱にも、調理器具にもなり得るのだ。
さて生きたアワビを親の言う通り「力まかせにグイグイ」した結果はどうだったか。
本当に、失敗は成功の母である。次からアワビのさばき方が飛躍的に上手くなったのだから。
(食ライター じろまるいずみ)
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