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私の履歴書復刻版

転換期――三越の配送から撤退 岡田氏の無理難題に反発 元ヤマト運輸社長 小倉昌男(20)

2016/8/10

出だしは苦戦した宅急便だが、徐々に消費者に認知されるようになった。電話1本で1個でも家庭まで取りに行くサービスや、翌日配達というスピードが口コミで広がっていったのである。

運転手の間では当初、集金や伝票処理などドライバーの仕事ではない、といった不満が多かった。しかし家庭まで荷物を届けると、「ありがとう」「ご苦労さま」と声を掛けられる。企業の大口荷主相手では怒られることの方が多かっただけに、大いに士気が上がった。

最初の約2カ月の取扱個数は3万個強だったが、実質的な初年度である1976年(昭和51年)度には170万個強に達した。うれしかった。まだ採算にのっていないが、最初のハードルは越えたと思った。

デメリットだらけといわれた宅急便だが、意外にメリットが多いことも分かってきた。主婦は大口荷主と違って運賃を値切ったりしない。荷物が軽いので女性ドライバーを活用できる。それに、始めてから気づいたのだが、日銭が入ってくる。企業相手では手形が多かったから、財務内容の改善に役立った。

79年、転換期を象徴するような出来事があった。創業4年目以来、半世紀余り取引してきた三越からの撤退である。

三越向け専用車両(昭和10年代)

創業者の父、康臣は「三越さんには足を向けて寝られない」が口癖で、三越の岩瀬英一郎社長も「大和運輸は当社の商品をお客様に届ける最終ランナー」と言ってくれた。だが、岡田茂氏が社長になってから、関係が大きく変わってしまった。

第1次石油危機後、岡田氏は自社の業績悪化の対応策として、配送料金の値下げを要求してきた。それだけでなく、当社の三越専属車両が三越の配送センターを利用しているので駐車料金を徴収するという。さらに、配送担当の社員が三越の施設内に常駐しているから、事務所使用料を払えと言ってきた。

三越の業績回復までという条件ですべて受け入れたが、約束は守られなかった。それどころか、岡田氏は無理難題を押し付けてきた。絵画や別荘地、自らプロデュースした映画の前売り券などの購入を強制してくる。三越主催の海外ツアーにも参加を強要された。

記念式典に清酒を贈ろうとしたら、「持ってこなくていいから、外商の売り上げに立てろ」と言われた。三越の先代社長、松田伊三雄氏の葬儀に届けようとした生花も同様だった。岡田氏は「アイデア次第で売り上げを伸ばせる」と得意げに語っていたが、これでは“押し売り”である。当社の三越出張所の収支は、年間1億円以上の赤字が続くようになった。

商業道徳を完全に無視している。最大の取引先だから我慢してきたが、限度を超えた。役員会に諮り、組合にも伝えたうえで、78年11月、三越の津田尚二常務に配送契約の解除を申し入れた。津田氏からは強く慰留されたが、もう遅い。ただ、歳暮の繁忙期を考慮して79年2月末まで配送を続けた。最後のあいさつに出向くと、岡田氏は「自分に相談してくれれば良かったのに」と言う。怒りを通り越して笑ってしまった。

この一件はマスコミでも取りざたされた。三越の入り口に待ち合わせ場所として有名なライオン像があり、当社のトレードマークがクロネコだったので、「ライオンがネコにかまれた」事件ともいわれた。

三越出張所を閉鎖する直前の1月15日、父が89歳で亡くなった。最後まで尊敬と反発の繰り返しだったが、経営を教えてくれた師であり、ライバルでもあった。三越、父との決別は、新しい時代を築く覚悟を私に迫っていた。

この連載は、2002年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。

[日経Bizアカデミー2013年3月28日付]

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