気付いたら不適切行為 悪意ない人に性善説は通じないマックス・ベイザーマンら著「倫理の死角」(2)

コーン・フェリー・ヘイグループ 高野研一氏

コーン・フェリー・ヘイグループ 高野研一氏

性悪説に立って社外取締役によるけん制を強化せよという議論に対し、日本の経営者の多くは違和感を覚えるのではないでしょうか。性悪説は個人主義の強い米国で、スター経営者に高額の報酬を与えて短期業績を競わせる場合にはフィットしますが、日本のように終身雇用の世界で、社員やメーンバンク、系列などとの長期的関係を気遣いながら経営する場合には当てはまらないと考える人が多いからです。

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(3)倫理的な行動 自分本位の判断が妨げに >>

コーン・フェリー・ヘイグループ 高野研一氏

その一方で、性善説に立ってお任せのままでは株主も社会も納得してくれない時代になってきました。日本企業の自己資本利益率(ROE)が諸外国に比べて低い中で、「悪いことをしない」だけでは責任を全うしていることにならないという議論があるからです。

幸い日本には「論語と算盤(そろばん)」という考え方があります。倫理とビジネスにおけるパフォーマンスは両立できるという渋沢栄一の思想です。本書の言わんとするところは、最後はここに行き着くのではないかと考えます。しかしその前に、性善説の限界についてみてみましょう。

倫理学は社会人として自立していく上で重要な学問です。何が正しいことなのかを教えれば、善意を持った人が育つという考え方にたちます。しかし、本書は何が正しいか知っていることと、実際に正しい行動を取ることとは全く別であるといいます。それは、大学の図書館で借りたまま返却されない本は、倫理学の本が一番多いということからも分かるようです。

巨額の粉飾決算が発覚した米エンロン事件に関わった経営者らに違法な意図があったわけではありません。「創造的な会計」により利益を追求した結果、気付いたら違法行為に手を染めていたということなのです。当事者からすれば、自分の取った行動は結果的に「不適切」であったかもしれませんが「悪意」はないのです。本書は、こうした「悪意のない人たち」に、性善説は通用しないと言い切っています。

ケーススタディー お迎えの遅刻に罰金の保育園で何が起こったか

人間はもともと善人にできているのだから、何が正しいのかを教育すれば間違ったことはしないというのが性善説です。ところが、本書の中にはその前提が通じない事例が数多く出てきます。

一例として、子供のお迎え時間に遅れる母親がいることに悩まされる保育園の話が出てきます。この保育園は、遅れることが悪いことだと思っていない母親がいると考え、遅れた場合には罰金を徴収することにしました。ところが、それによって逆にお迎えに遅れる母親が増えてしまったといいます。遅れることが悪いことだと理解すれば、遅刻が減るだろうという考えは、事実によって否定されてしまったのです。いったい何が起こったのでしょうか。

この保育園では、罰金を導入したことによって、遅刻をお金で解決できるという認識を植えつけてしまったのです。言い換えれば、遅刻が延長サービスに変わってしまったのです。このように、倫理に反する問題を、金銭による取引にすり替えてしまうのが人間です。こうしたすり替えが行われると、倫理教育は効果を失ってしまいます。

コーポレートガバナンス(企業統治)で、けん制を強調しすぎることの弊害はここにあります。けん制の仕組みに依存し過ぎると、形を整えることで免責されたような気分になり、かえって偏った行動を助長してしまうことになりかねません。

エンロンの倫理綱領 J&Jの「我が信条」

2001年に簿外債務の隠蔽により経営破綻した米エネルギー大手、エンロンは、社員に「コンプライアンス(法令順守)誓約書」に署名することを求めていました。しかし、残念ながらその倫理綱領は経営陣には適用されていなかったようです。

エンロンの元最高経営責任者(CEO)のケネス・レイ氏は、エンロンとの取引がビジネスの80%を占める写真共有サービスの会社に個人として16万ドル出資していることについて質(ただ)された際に、「(ルールは)重要だが、その奴隷になってはならない」と語っています。社員は縛っても、自分は縛られてはいけないということなのです。こうしたルールに縛られない人には、ガバナンスの仕組みは機能しません。

本書の中では、エンロンの倫理綱領と、米日用品・医薬品大手のジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)の「我が信条」が並べて比較されています。J&Jは1982年に主力製品である解熱鎮痛剤「タイレノール」に毒物を混入された際、迅速に製品を回収したことによって社会から信頼を獲得した企業です。J&Jの「我が信条」を読むと、そこには顧客、社員、社会、株主といったステークホルダー(利害関係者)に対する価値の提供が約束されていることがわかります。これに対して、エンロンの倫理綱領を読むと、それは社員を縛るための法的文書であったことが実感できます。

なぜこうした本末転倒な議論のすり替えが起こるのでしょうか。それは、目的と手段を明確に分離することができないからです。上司にとっての手段が、部下にとっては目的になることがあるように、モノの見方によって目的と手段の捉え方は変わってきます。

前回「公」と「私」は完全には分離できないことが倫理の問題の根の深さだと述べましたが、これと似たところがあります。モノの見方を変えると、手段であったはずのものが目的に見え、公の立場に立っていたはずの自分が、私的な問題に心を奪われるようになる。それが人間の認識の仕方なのです。「倫理の死角」は、こうした人間の認識の構造的脆弱さの中に巧みに入り込んできます。

多くの経営者が禅に引かれる理由

性善説や性悪説は、人間の「主観」を「客体」として扱おうとするところにそもそもの限界があります。主観のようにいかようにも変わりうるものに対して、本来的に善だとか悪だとかといった前提を置くことに何の意味があるのでしょうか。何が善なのか、悪なのかといったことすら、絶対的に定義することはできないというのに。モノの見方次第で、善と悪、目的と手段、公と私の見え方は変わります。それが人間の主観なのです。それをある一面からしか見ようとしなくなるところに「倫理の死角」が生じます。

こう考えると、倫理の問題に対峙するためには、物事に白黒つけようとする人間の本性に逆らい、自分のモノの見方、見え方自体を疑う習慣が必要ということになります。多くの経営者が禅に引かれる理由はここにあるように感じます。禅は「何が真理かはモノの見方によって変わる」という立場を取ります。そのために、禅問答のような形で、自分のモノの見方を柔軟に変える修行に取り組むのです。これに対して、西洋哲学は、「これが唯一絶対の真理だ」という知識を啓示しようとします。倫理教育やコンプライアンスの仕組みづくりは、こうした「これが唯一の解だ」という西洋思想の流れをくむアプローチだといえるでしょう。

しかし、すでに述べてきたように、そうした白黒はっきりつけようという発想そのものの中に、「倫理の死角」が入り込んできます。主観の問題に対峙するには、知識の習得ではなく、実践や修行というアプローチが必要になるのです。前回紹介したコマツの元社長、坂根正弘氏の「知行合一」という言葉は、こうした文脈の中でこそ意味を持つといえるでしょう。

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高野研一(たかの・けんいち)
コーン・フェリー・ヘイグループ社長

1987年、神戸大学経済学部卒業。1992年6月シカゴ大学ビジネススクール(MBA)修了。大手銀行勤務、外資系、戦略系コンサルティング会社を経て、ヘイグループ(現コーン・フェリー・ヘイグループ)に入社、2007年10月から社長。著書に『カリスマ経営者の名著を読む』(日経文庫)、『超ロジカル思考 「ひらめき力」を引き出す発想トレーニング』(日本経済新聞出版社)などがある。

この連載は日本経済新聞火曜朝刊「キャリアアップ面」と連動しています。

「経営書を読む」記事一覧

倫理の死角ーなぜ人と企業は判断を誤るのか

著者 : マックス・H・ベイザーマン, アン・E・テンブランセル
出版 : エヌティティ出版
価格 : 3,024円 (税込み)

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