旅から生まれた挑戦者(13) 火中の栗 あえて拾う
ハウステンボス社長 沢田秀雄氏
オランダの街並みを再現したテーマパーク、ハウステンボス(長崎県佐世保市)は2009年、閉鎖寸前の状況に追い込まれていた。
09年12月、エイチ・アイ・エス(HIS)の役員たちを連れてハウステンボスを隠密に訪れました。目的は再建に向けたデューデリジェンス(資産査定)でした。
「暗くて寒いなあ」。私たちが目にした現実は厳しいものでした。日が暮れても園内にはイルミネーションはなく、BGMも流れていません。かびの臭いもしました。「経営支援は絶対に反対です」。役員の意見は一致していました。
ハウステンボスは閉園の瀬戸際にありました。前の年に起きたリーマン・ショックで来園者が急減、経営母体の野村プリンシパル・ファイナンスは手を引く考えを固めていました。代わりに経営を任せられる企業を探していましたが、赤字続きのテーマパークに救いの手を差し伸べる企業は見つかりません。とうとう佐世保市の朝長則男市長まで九州経済界に支援を要請する事態となり、HISにも依頼が来たのでした。
ハウステンボスは92年、約2200億円をかけてオープンしました。しかし収支計画が甘く03年には経営破綻しました。その後に経営再建に乗り出したのが野村プリンシパルです。その時に私は相談を持ちかけられ「やめた方がいいですよ」と助言したことがありました。まさかその後、HISに支援要請が来るとは夢にも思いませんでした。
九州経済界は09年の秋に支援を見送った。
2010年、朝長市長の「三顧の礼」に心を打たれ支援を決めた(左から3人目が本人)
候補はHISだけになりました。私の自宅には毎晩、十数人の記者が取材に詰めかけました。朝長市長からは2度目の要請も受けましたが、「HIS単独では難しい」とお答えしました。ただ、検討作業はそのまま続けました。
HISは05年に熊本県の九州産業交通(現九州産交ホールディングス)を傘下に収めるなど、九州に少なからずのご縁がありました。しかしHIS社内も、ベンチャー企業の仲間も「わざわざ火中の栗を拾わなくてもいい」と支援に猛反対しました。誰もが経営再建は不可能だと思いました。私はだからこそ挑戦したいという気持ちになっていました。持ち前のチャレンジ精神に火がついたのです。
支援するかどうかを最終判断する10年2月。朝長市長が3度目のお願いに来られました。HISが断ればハウステンボスは閉鎖されて約1千人の従業員が職を失います。地元への影響は計り知れませんでした。朝長市長の「三顧の礼」にも心を打たれました。「3年で成果がでなければ、経営から手を引く」。いくつかの条件を出して、2月12日に経営支援することを表明しました。
テーマパークは素人だったので、HIS社内から意欲のある若手を募り、経営を任せようと考えました。ところが、手を挙げる社員はひとりもいませんでした。