卵とじ、ソース、たれ、デミ…カツ丼にも「食の方言」
どんぶり・ライス(1)
今回は長くなる。いつも長いけど、それよりちょっと長くなる。読者からの貴重かつ大作のメールを特設リングで紹介するからである。
ひとつは「アイスクリンとアイスクリームの違いは乳製品であるか否かではない」。
ふたつめは「脱脂粉乳への誤解を解く」といった内容で、ともに横浜市の江分利万作さんからのもの。やや専門的だがめちゃくちゃ参考になる。コーヒーブレイクなぞを挟んでじっくり読んでいただきたい。江分利さん、ありがとうございました。
読者の皆さんから質問がいくつか来ている。
しかしながら、私にもよくわからないのです。昆布とワカメの違い……。ワカメと昆布の境界線って何ですか? 違いをはっきりと理解できれば、私も胸をはってイギリス人に説明できます。品種が違うだけなのでしょうか?(ぷりん@英国南部さん)
辞書的なお答えを書いても仕方ないでしょう。そこで私が親しくしてもらっている大阪の昆布屋さんに聞いてみました。「どう説明したら英国人に昆布とワカメの違いをわかってもらえるでしょうか」。答えは次のようなものでした。
「簡単にいうと茎から1枚ののっぺりした葉がのびていて葉の真ん中に葉脈が1本通っているのが昆布です。ワカメは葉の中央に芯があって、葉の両側に深い切れ込みがはいっています。見た目には枝分かれしているように見えます。
決定的に違うのは胞子の出る場所です。昆布は葉全体からでますが、ワカメは茎の上で、葉までの間にめかぶ(子嚢班)という所があって、ここから出ます。昆布にはこれがありません」
K多條さん、ありがとうございました。それで昆布とワカメですが、私なりの判別法は塩がまぶしてあろう(塩蔵品)と乾燥物であろうと「くちゃくちゃ」の状態で売られているのがワカメ。昆布はすっきりくっきりの板状になっています。ワカメは薄くて緑か茶色。昆布は厚くて真っ黒け。昆布は下の方を持って頭をたたいても曲がりませんが、ワカメはふにゃっとなって頭はたたけません。頭たたき判別法です。水につけてしばらくすると入れ歯でもかめるくらい軟らかくなるのがワカメ。丈夫な歯でもかみ切れないのが昆布。入れ歯判別法です。
ここでデスク乱入 ワカメは水につけておくと増えます。昆布は増えません。ダメ?
辞書を見ると、昆布にはKelpなどの英語の名前もちゃんとあります。日本の昆布と一致するのかはよくわかりませんが…。でもkelpと書いたら、「そんなもの食べるのか?」という反応でしょうね。だからヘルシーな日本の食材「konbu」にして売っているような気がします。
ンダ、ンダ。
Q2:野瀬編集委員が「マヨカツ・サンド」の証拠写真を取ったのにはどういう意図があったのでしょう。
A)「鞍馬サンド」さんではこういう「まとも」なものも売っていることを示すため。
B)野瀬基準からすると「マヨカツ・サンド」は邪道。「鞍馬サンド」ははイカモノ専門店であることを強調するため。
C)名古屋ではカツには常に味噌がついているという偏見を覆すため。
D)デジカメが戻ってきたうれしさの余り被写体は何でも良かった。
E)以上のどれでもない。
Q3:野瀬編集委員は「カステラサンド」の何に感銘を受けたのでしょう。
A)試食してみたら、えもいわれぬ美味だったので感激した。
B)片面はジャム(多分ママレードかあんずジャム)、片面は生クリーム(又はバタークリーム)と手抜きのない凝った技巧には敬意を表さずにはいられなかった。
C)初めて見るものは何でもスクープ記事になるという記者根性が条件反射的に出てきた。
D)ナンバーワンよりオンリーワンをめざす名古屋の某ノーベル賞学者の心意気がカステラサンドの誕生につながったと考えられるので涙した。
E)デジカメが戻ってきたうれしさの余り被写体は何でも良かった。
F)以上のどれでもない。
正解はどれでせう。こたえてくれたらうれぴーな。よ・ろ・し・く(フロリダの「なXX」さん)
A1:全40種の商品一覧をゲットしてきています。今、それを見ますからね。えーと、あっこれだ。「納豆コーヒーゼリー」です。家に持って帰って家族全員で試食しました。納豆は粘りましたが、食べてみるとクリームの甘さで何もわかりませんでした。最後まで残ったのは照り焼きチキンシメジでした。
A2:Eです。これ、うまいかなと思ったからです。みそカツサンドは別に「みそカツ」というすごくストレートな名前で売られていましたが、以前よそで食べていたので買いませんでした。
A3:しいて言えばDですかね。カステラをパンで挟んで売ってみようと思った人はどんな人かじっくり考えるために買いました。考えた結果わかったのは、鞍馬サンドの人に違いないということでした。後は何もわかりませんでした。ちなみに商品名は「月光」。おしゃれでしょ?
ついでにこの店の商品名を書くと「源氏」「平家」「紅葉」「木漏れ日」「山伏」「鞍馬」「義経」「林道」「貴船」「清流」「弁慶」「天使のおくりもの」「不動」「都」「泉式部」(和泉じゃなかった?)「牛若丸」「和(なごみ)」みたいラインナップになっています。何か全然わからないでしょ? 「源氏」がハムたまごで「平家」はツナたまごです。「天使のおくりもの」はエビカツ。「名残雪」というのもあるのですが、これはあずきアイスを挟んだホットサンドでした。
本題に入らなくちゃ。急げ急げ。
■根室の「エスカロップ」
バターライス(タケノコ入りがオリジナル?)の上にトンカツをのせて、デミグラスソースをかけたメニューです。根室で開発され、市内のレストランや喫茶店ではお馴染みのメニューですが、おそらく根室以外では存在しない「食の方言」だと思います。「エスカロップ」の語源はフランス語で「薄切り肉」の意味など諸説あるようです。一部の店には、「オリエンタルライス」という姉妹メニュー?もあります(炒めたご飯にカレー風味の牛肉がのっていて、やはりデミグラスソースがかかっています)
■加古川の「かつめし」
ご飯の上にビフカツ(トンカツの店もある)をのせ、デミグラスソース風のたれをかけたメニュー。平らな洋皿にのって出てくるので、最初はカツカレーのように見えました。ゆでたキャベツが添えられることが多いようです。加古川や高砂あたりでは、家庭でも作られるそうで、オタフクソースからは「かつめしのたれ」という商品が発売されています。このメニューも、同じ兵庫の姫路あたりに行くとこつぜんと姿を消すらしいですが、実際にはどうなんでしょう? あるいは、東側の境目はどこに?
姫路、相生と西に向かって岡山まで行くと、そこでは、やはりデミグラスソースをかけたカツ丼がラーメン屋さんなどで食べられるので、このあたりのデミグラスソース風カツ丼は、まだら模様?を呈しているようで不思議です。
■会津のソースカツ丼
会津若松市内のラーメン屋さんには、ソースカツ丼を出す店があります。ラーメン+ミニソースカツ丼セットなんていうのがメニューにありました。会津の芦の牧温泉に「牛乳屋食堂」という、ラーメンとカツ丼で有名な店があります。ここのカツ丼はソースカツ丼と煮込みカツ丼が選択できるのですが、どちらも「ソース味」です。
岡山や会津のケースを見ると、ラーメン屋とソースカツ丼の間には、ひょっとしたら何か関連があるのではないかという仮説が成立するような気がします。また、ソースカツ丼地区では、卵とじカツ丼は食べないのか?ソースの味は一種類なのか何種類もあるのかなど、興味は尽きません(ご飯の大好きな ミルフォードさん)
はい、いっきょに出てきました。
エスカロップはルーツの店ではタケノコご飯ですね。かつめしは本当に加古川周辺だけらしいですよ。
岡山でデミカツ丼を食べたときは「おかーさーん」と叫んでしまった記憶があります。この場合の「おかーさーん」は「おいぴー」という意味です。
会津若松がソースカツ丼地域であることが確定しました。長野といえば駒ケ根市辺りはどうでしょう。
事実ならすごい。
天丼風たれカツ丼。食べたことはありませんが、今度新潟中華ナポを食べに行く予定なのでカツ丼も食べてみます。キナコさんのご両親は新潟との接点はありませんか。
関連メールもいただいているが、今やすっかりメジャーになった神戸の「そばめし」は、あるお好み焼き屋さんにきていた近所の女子工員さんたちがお弁当の残りご飯を焼きそばと一緒に鉄板で炒めたのが始まりだそうだ。往々にして、地域の食べ物はささいなきっかけで生まれる。
食べ物の世界における偶然というのは実に重大な要素で、福井のソースカツ丼が生まれた背景には関東大震災があったというのが有力な説である。ソースカツ丼自体の誕生は大正2(1913)年。創作者は早稲田鶴巻町で「ヨーロッパ軒」を経営していた高畑増太郎という人で、震災を機に実家のある福井に帰ってそこでソースカツ丼を根付かせたというものである(ただ、長野県駒ケ根市発祥説、名古屋発祥説もある)。
江戸前の握り寿司が関西に伝わったのも東京の寿司職人が震災で大阪に移って来たからであった。
天ぷらもごま油を使って揚げていた関東の職人が震災後、大量に大阪に移り住み、そこで綿実油などを使う軽い関西風の天ぷらを知る。そして後にそれを関東に持ち込むという経過をたどるのである。
北海道の北の方でトンカツとエビフライの卵とじがのっかった「あいのり丼」を食べました。特徴的だと思ったのは、ご飯が白飯ではなくシイタケを混ぜ込んだご飯だったことです。普通のカツ丼も同じシイタケご飯のようでした。
以前、長崎に行った際、トルコライスを食べました。偏食アカデミーに出ていたのを覚えていたからです。美味しくいただきました……現在セブンイレブンでは北海道弁当特集をやっています。根室のエスカロップ、帯広の豚丼なんかを売っています(沼津市のチャリンコさん)
「月見バター丼」は高いです。原価めちゃめちゃ安いのに。そして、やっと豚丼とトルコライスが登場しました。
根室のエスカロップ、新潟のつゆかけカツ丼、会津と長野南部、福井のソースカツ丼、加古川のかつめし、岡山周辺のデミグラスソースカツ丼、長崎のトルコライスといったところが浮かんできた。北海道のあいのり丼が個店の独自メニューか地域の食の方言なのかは現時点では不明。
ただ、北海道の北の方でカツ丼とあいのり丼の下部構造がともにタケノコご飯だった点は要注意。タケノコご飯がベースのエスカロップとの関連があると面白い。タケノコご飯関連のメールを待ちたい。調布の月見バター丼は個店メニューであろう。だって、調布でぜんぜん見かけないもん。
神戸のそばめしや帯広の豚丼は今や有名になった。岡山にもメジャーになった物件が存在する。地元からのメールを待ちたい。今治にもちょっと変わったのがあるはず。埼玉から、アレについてのメールが来るのを待っているのだが……。それと木の葉丼は関西以外にあるのだろうか。どうもほかの地域で見た記憶がないのである。木の葉丼が関西の方言である可能性を考えている。他人丼は店によってか土地によってか開化丼とも呼ばれる。その場合は牛肉が用いられるが、地域分布はあるのだろうか。
それと突然だか突如だか出現する関西の移動式メロンパン屋さんは「シャトルのメロンパン」と判明した。たくさんの情報提供に感謝。地元テレビ番組や新聞で取り上げられているようだ。検索すると販売場所や連絡先もわかるサイトに行き着ける。
大量のメールを積み残してしまったが、特設リングが控えている。残りは次回。それにしてもミルメークの反響の大きさにはびっくりした。そんなにおいしかったの? ぐやじーよー。
で終わると思われたかもしれないが、まだである。
先日、神田の立ち飲み屋でゴーヤーチャンプルーの作り方を覚えた。目の前が調理台だったので沖縄出身の若きマスターによる製作過程をつぶさに観察しつつ、若干の質問をすることができたからである。また我が家のお父さん飯のメニューが増える喜びに包まれ、日曜に絶対作ってやろう、家族を感動の渦に巻き込んでやろうと思っていたのだが、当日の夕方、ちょっと目を離したスキにカミサンがあっという間にゴーヤーチャンプルーを作ってしまったのである。しかも私がその店で食べたものより数段うまかったのである。この瞬間、お父さん飯のメニューからゴーヤーチャンプルーが一度も食卓にのぼることもなく消えたのであった。ぐやじがっだなー。
(特別編集委員 野瀬泰申)
[本稿は2000年11月から2010年3月まで掲載した「食べ物 新日本奇行」を基にしています]
1)「アイスクリームについて」
横浜開港の翌年,万延元年(1860年)に咸臨丸で渡米した徳川幕府の御一行様の新見豊前守の従僕であった柳川兼三郎という人が,かの地で接したアイスクリームについて書き残した記録があり、「珍しきものあり 氷を色々に染め 物の形を作り是を出す 味は至って甘く 口中に入るるに忽ち溶けて誠に美味なり 之をアイスクリンといふ」と記しています。
その後、町田房蔵という人が明治2年、横浜馬車道の「氷水屋」という店で日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売を始めました。今でも横浜の馬車道にはアイスクリーム発祥の地の記念碑があります。
【以上の参考とした資料】
社団法人・日本アイスクリーム協会ホームページ
横浜税関ホームページ
平凡社世界大百科事典 CD-ROM 版
つまりアイスクリンは、アメリカ人が「アイスクリーム」を発音するのをそのまま書き取ったもので、ローマ字で知られるヘップバーン氏を「ヘボン」と書いたのと似ていますね。乳製品か否かということとは関係ありません。
ちなみに我が国で、乳製品ではない氷菓と乳製品であるアイスクリーム類が区別されたのは昭和26年12月27日の厚生省令第52号『乳及び乳製品の成分規格等に関する省令』ですが、この規格によってももちろん当時のアイスクリンは乳製品です。
昔むかし、まだ蒸気機関車が健在だったころ、当時の国鉄のホームや車内でアイスクリームを販売していました。私の中学生時代(群馬県の前橋市)、先生が授業中に語ったところによれば、東海道線の鈍行に乗って東京から西に行くと、車内販売のおじさんが静岡県までは「アイスクリー(ム)、アイスクリー(ム)はいかが」と言いながら売りに来るのですが、愛知県に入るとこれが急に「アイスクリン、アイスクリン」と連呼するようになるのだとのことでした。昭和39年のことです。
明治初期の横浜に始まる日本のアイスクリームは当初「アイスクリン」と呼ばれていましたが、東京から次第に「アイスクリーム」という呼び名が広まり、昭和30年代には静岡県あたりまで達していたと私は想像しています。
野瀬註 前回、「アイスクリン」と「アイスクリーム」の違いは乳製品か否かではないかと書きましたのは、話題になっていた高知や沖縄の路上販売型アイスクリンのことを言ったつもりだったのですが、いずれにせよ呼称に関する歴史的経過や地域的な違いなどを教えてくださって感謝しています。
2)「脱脂粉乳について」
いわゆる60年安保闘争を間近にし、大人達に反米感情が次第に高まりつつあった1950年ごろ、私の通っていた小学校で「給食の脱脂粉乳はアメリカの家畜の餌だ」という話が子供達の間に広まりました。ある日、給食の時間に担任の先生が「そんなことはありません」と言って、学校給食の基になったララ物資のことやユニセフによる脱脂粉乳援助のことを話して下さいました。そのことは今でも覚えており、ネット上に「脱脂粉乳はアメリカの豚の餌」などと書かれているのを見つける度に悲しい思いがして、私は自分のサイトに脱脂粉乳について文章を書きました。要約すると以下の通りです。
1945年の秋、日本の国民経済は疲弊の極みに達し、都市部における食糧危機が深刻の度を増しつつありました。その惨状を知った、当時サンフランシスコ在住の日系アメリカ人、浅野七之助氏(1900~1998年)は、この年の11月に「日本難民救済有志集会」を開き祖国救済運動を開始しました。
日本政府はGHQ(連合国軍総司令部)に対して緊急食糧援助を要請し、翌1月にはフィリピンから、3月にはアメリカから食糧輸入船が日本に到着、またGHQは小麦や魚缶詰などを放出したが、主食の配給遅配はいよいよ著しくなりました。
同じころ、浅野氏を中心とする「日本難民救済会」は、サンフランシスコ在住の日系人から募った浄財で救済物資を購入し日本に輸送しようとしましたが、適当な窓口団体がありませんでした。そこで浅野氏は宗教団体に働きかけ、大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするよう陳情しました。
後に来日して皇族の英語教師を務められたことで知られるクェーカー教徒、E.B.Rhoads女史(1896~1979年)の尽力により1946年9月、浅野氏の日本難民救済会は公認団体"ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief of Asia)"として発足し、クリスマスに間に合うように衣類や脱脂粉乳などのいわゆる「ララ物資」第1便450tが日本に向けて出航しました。
なぜ脱脂粉乳が祖国救援物資として選ばれたかについては、GHQ民政局と文部省との間で相談がなされた結果だとされています。GHQが当時東北大学医学部の教授であった近藤正二博士(近藤教授は長寿者の多い地域と短命な地域を比較調査した栄養学研究で知られる)に助言を求めたところ、成長期の児童には動物性のタンパク質が不可欠であり、小麦粉のパンよりも脱脂粉乳が適当だと回答したとのことです。
仔牛は生後しばらくの期間、成牛と同じ飼料を与えることができません。この時期に消化不良を起こすとその後の成長が著しく阻害されるため、脱脂粉乳またはそれに類する組成の飼料で育てられます。
アメリカという国は工業国家ですが、また世界最大の農業国家でもあります。いま我々が「家畜の餌」と言う時、人の食料以下のあたかも残飯のごとき物を思い浮かべますが、当時のアメリカにとって脱脂粉乳は重要な農産物だったはずです。また、極東の小さな島国へと太平洋を越えて輸送し、すべての児童に平等に配布できる物資は腐敗しない小麦粉か脱脂粉乳しかなかったでしょう。私の父母の世代は子供達のために脱脂粉乳をアメリカに要請し、その希望はかなえられました。そしてその資金は、初めサンフランシスコの日系アメリカ人の人々による祖国救援活動に、続いて世界中から集められた善意に基づくものでありました。だから私は、あの脱脂粉乳は決して「家畜の餌」などではなかったと思うのです。
給食の脱脂粉乳を飲んで育ち、後に長じて大学生となった私は反米街頭デモに出かける人間になりましたが、それでも小学校の時に先生が教えてくれたララ物資と、それに続くユニセフ給食に示された人間の善意というものを忘れたことはありませんでした。
1997年にアスペクト編集部から出版された『なつかしの給食』という本がありますが、その199ページに昭和30年代の小学校の給食室でミルクを作る様子が少し書かれています。私も見たことがありますが、それはかなり大変な作業だったようです……実は「ミルメークの登場」の前にコーヒー粉末や粉末ジュースの素を溶かし込んだ脱脂粉乳のミルクが給食の献立にありました(昭和30年代の中ごろ、群馬県前橋市教育委員会による学校給食献立)。これは学校の給食室で溶かして調理していました。このミルクがただの脱脂粉乳のミルクよりおいしくなったかというと成功したとは言いがたいですが、当時の学校給食関係者の苦労がしのばれます。そのころの「給食のおばちゃん」達はまだ御存命だと思われます。その皆さんが何とか子供達に脱脂粉乳のミルクを飲んでもらおうと払った努力のためにも、給食のミルクを「家畜の餌」とだけは言うまいと私は思っています。
数年前には、ネット上を検索すると給食の脱脂粉乳に関する記載がたくさんありましたが、残念ながらほとんど姿を消してしまいました。上に述べたことは、今となってはGHQの日本占領史にあたっていただくしかありませんが。ただ、浅野七之助氏の業績に関しては、長江好道著『日系人の夜明け』という本が岩手日報社から出版(1987年)されていますのでお調べいただければ嬉しく存じます。江分利万作(横浜市;53歳)
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
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