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私の履歴書復刻版

テープレコーダー――日夜苦心、やっと成功 手をとり合ってうれし泣き ソニー創業者 井深大(12)

2012/5/24

私はこれまでいろいろな物をこしらえて商売にしてきたが、たいてい軍とか役所とか放送局のもので与えられた仕様書によって作ったものばかりだった。それで何か大衆に直結した商品をかねがねやってみたいと思っていた。大衆は製品のきびしい審判官であり、正しい評価をするものだと信じていたので、大衆商品はいちばんやりがいがあるような気がしていた。

ラジオは終戦後どこのメーカーでも手をつけていたので、それ以外のものとなると、録音機ぐらいしかないということになった。ワイヤレコーダーは戦争中すでに東北大学の永井研究室などを中心に相当発達していたし、ワイヤそのものも東北大学の金属材料研究所の手でよいものができていたが、戦後は磁気特性のよい鋼線ができておらず、といって自分たちの手でこれを製作するわけにもいかなかった。

ちょうどそのときNHKに米軍がテープレコーダーを1台持ち込んで来たのを見せられた。これだ、われわれのつくるものはこれ以外にないとそのとき決心した。

だがテープをつくると決心したものの第一、テープのベースをなんでつくるかで行きづまった。ベースの材料もいまでこそどんなプラスチック材にも事欠かないが、当時は適当なものが全くなかった。セロハンでやってみたが伸び縮みが多く、とてもテープとしては使いものにならない。いろいろやってみた結果、紙でつくる以外に適当な材料がないということになった。たまたま本州製紙に盛田君の親類の小寺五郎さん(現在同社富士工場次長)がいたので、協力してくれることになった。本州製紙で何回も試作してやっとできあがったのがクラフト紙に何回もカレンダーをかけたものだった。

一方、磁気材料の方も初めは見当がつかず、東京工大の加藤博士の発明したOPマグネットを粉にして塗ってみたり、べんがらを焼いたりして蓚酸鉄(しゅうさんてつ)にたどりつくまでに木原研究員にはだいぶ苦労させた。後にシンクロリーダーで有名になった東京工大の星野やすし教授にもいろいろお知恵を拝借した。

最初はザーザー雑音ばかりでなかなか思うように音が出てこなかった。いろいろやった末、なんとか音が出るようになったのだが、このときは木原主任研究員をはじめ研究従事者は徹夜で研究する日が何日も続いたのだった。苦労が大きかっただけに思いのままの音を録音できたときは、みんな手をとってうれし泣きに泣いた。テープレコーダーは日本では初めてのものであり、世界でもテープとテープレコーダーと両方をつくっている会社は、今日でもほとんど例がないようである。

このテープをこしらえ上げたことがわれわれにとっては「やればなんだってできるのだ」という大きな自信を与えてくれることになり、後にトランジスターをやるときにもたいへんな力となったのである。

また録音方式では前述の東北大学の永井健三教授や、五十嵐悌二氏などの発明になる高周波バイアス法の特許があり、この特許権を安立電気から25万円で買い取って日本電気と共有した。この特許は現在世界中で使用されており(永井先生が米国にも戦前出願されたが戦争のためうやむやになって日本でのみ権利があった)、日本へ輸入されるテープレコーダーは全部特許料をいただくこととなった。

そのころ東京にあるバルコム貿易という米国商社がテープレコーダーを輸入しても特許料を払おうとしないのでわれわれは警告を発したがどうしてもきいてくれず、かえってわれわれを米軍司令部へ呼び出したりしておどかしてきた。そこで日本の特許の権威のためにもと考えて三百何十万円かの供託金を積んで東京地裁に訴えた。世の中はこれに対して非常に勇気があるという称賛と、無謀だ、アメリカさんにたてついて供託金を没収されたらどうする気だという非難とこもごもだった。裁判の途中でわれわれの言いぶんはほとんどいれられて和解となったが、実のところほっとした。

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この連載は、昭和37年12月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第6巻」(日本経済新聞出版社)の「井深大」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年5月24日付]

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