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私の履歴書復刻版

結婚――新しい仕事へ出発 日本光音の無線部で研究 ソニー創業者 井深大(6)

2012/4/26

昭和8、9年といえば日本でもオーナー・ドライバーがぼつぼつ出現したころである。所長の植村泰二氏、PCL交響楽団の紙恭輔、藤山一郎の両氏らもオーナー・ドライバーのハシリの方で、出社はもちろん、レジャーをドライブで楽しんでいるのを見てうらやましく思ったこともある。私は当時は映画フィルムの切り端を使える写真機がほしくてたまらなかったので、ライカを280円で買ったのがたたって自動車を買う余力がなかった。3度の飯を一度ぬいてもいいからオーナー・ドライバーになりたい気持ちでいっぱいだった。

昭和35年藍綬褒章受賞時の筆者夫妻

PCLに入社して3年目の昭和10年には月給も120円になり、賞与はかなり出るようになった。この年に自動車の免許を取り、大枚550円で中古のダットサンを買った。この車は馬力が小さく、東京渋谷の道玄坂をセカンドでなければ上がらないような品物であった。やっとの思いでオーナー・ドライバーになった私は、うれしさのあまり“自動車に取りつかれた男”のように朝晩用事もないのに自動車に乗ってあちこち走り回った。

自動車を買って有頂天になっているときに野村胡堂氏から見合いをすすめられた。小学生時代には“ませ”たところもあったが、機械をいじるようになってから、いつしか機械に夢中のため結婚などということは考えてもみなかった。野村さんに見合いの話を持ち出されて「自分もそんな年になったのか」と苦笑ともつかぬ笑いがこみ上げてきた。

昭和10年ごろには野村さんも一流の探偵小説家としてめきめきと名を売り出したときであり、軽井沢に別荘を持って豊かな生活をしていた。ちょうどそのころ野村さんの隣の別荘が当時朝日新聞の論説委員として活躍していた前田多門の持ち家であった。野村さんが私のところに持ってきた見合いの相手がこの前田の二女の勢喜子、つまり私の妻である。

野村さんにつれられて前田の家に見合いにいったときに20歳そこそこの若い娘で、浴衣を着てヘコ帯を締めた姿の勢喜子が出てきた。まだ女子美術在学中で「こんな子供が結婚できるのか……」と思ったほどである。私は勢喜子より父の前田多門が好きになり、勢喜子の母は本人より一生懸命になって盛んに結婚するように動いた。前田の両親が勢喜子と私を結びつけるよう両方に押し付けた格好で、とにかく結婚することになってしまった。

私と妻とは昭和11年12月に結婚した。12年には長女の志津子、15年には二女の多恵子、20年には長男の亮が生まれ、3人の子持ちになった。

そうこうしているうちに、PCLはトーキーの下請けだけでは商売が成り立たないというので映画会社になった。映画事業は私の性分に合わなかった。植村氏に頼んで、当時16ミリのトーキーを作るために発足したばかりの「日本光音」に入れてもらった。日本光音で無線部をつくってもらって、そこの主任格でいろいろ研究した。11年の暮れのことである。こうしてこの年は偶然にも新しい仕事と新しい人生への出発の年となった。日本光音の無線部には樋口晃君(現ソニー常務)、安田順一君(ソニー技術部次長)らが私といっしょに働いていた。

昭和12年といえば、日華事変が始まっていた。日本光音では真空管やブラウン管を作っていたが、そのうちにトーキーだけではまずいというので軍の仕事も始めるようになった。軍の仕事をやることによってトーキーもいままで通り仕事をつづけることができた。軍の仕事はふえる一方であった。無線部の仕事は膨張してトーキー部門を追い越さんばかりの勢いになった。そうなると社名が日本光音ではどうにも格好がつかない。無線部は日本光音本来のトーキーの仕事とは全く異質の測定器をつくる軍需工場に模様替えしていったのであるから。

<<第5回 社会人第一歩――請われてPCL入社

>>第7回 戦時中――盛田君との出会い

この連載は、昭和37年12月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第6巻」(日本経済新聞出版社)の「井深大」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年4月26日付]

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