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私の履歴書復刻版

梁山泊――“青年隊”と愉快な日々 酔い語りあう生活に陰り 日清食品創業者 安藤百福(9)

2014/4/21

日本の復興は食からという思いを実行に移すため、私は泉大津の地に専門家を集めて「国民栄養化学研究所」を設立した。栄養食品を開発しようと考えたのである。

筆者を出迎える楽隊

街ではまだ、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶たなかった。国から配給される食糧では足りず、闇市(やみいち)が繁盛した。1947年(昭和22年)10月、東京地裁の山口良忠判事はヤミ食糧の購入を潔しとせず、栄養失調で亡くなった。そんな痛ましいニュースが流れる中で、研究所は誕生した。

最初に研究したのは病人食だった。健康な人でも栄養失調の一歩手前にいた時代である。入院中の患者が、病気そのものではなく栄養不良のために命を縮めていた。大阪市立衛生研究所や大阪大学の先生方に専門的研究をお願いした。農林省食品局長で後に農林大臣を務められた坂田英一さんからも強い賛同を得て、病人用の栄養食品の開発に着手したのである。

私は昔から面白いテーマがみつかると、我を忘れてしまうところがある。今回も、たちまち栄養食品のとりこになった。

ある晩、布団の中で「果たしてどんなものが材料になるのだろうか」と考えていた。すると、カエルの声が聞こえた。庭の池に食用ガエルがすみついていたのである。これは栄養食品になるかもしれんぞと考えた。

捕まえてみると体長20センチはあった。きれいに下処理して圧力釜に入れ、電熱器にかけた。隣室には家内と生まれたばかりの息子、宏基が寝ている。2時間ほどたつと、ドーンという大音響とともに爆発した。中身が部屋中に飛び散って、家の中で一番きれいな日本間の天井、鴨居、ふすまなどが台無しになってしまった。

「まあ、何もこんなところでなさらなくとも」と、家内にさんざん絞られた。

食用ガエルを栄養食品に使う試みは挫折したが、料理してみると大変おいしく、産後の家内の格好の栄養源になった。

研究所では、牛や豚の骨からタンパク栄養食品になるエキスを抽出することに成功した。「ビセイクル」という名前で、ペースト状のものをパンに塗って食べた。厚生省に品質が評価され、病院にも一部供給された。ほんの小さな商品だったが、私の食品加工の第一歩は、こうして報いられたのである。

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