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私の履歴書復刻版

製塩業――「鉄板に海水」の自己流 名古屋に交通学校も設立 日清食品創業者 安藤百福(8)

2014/4/17

泉大津で最初に始めたのは、製塩業である。私には塩作りの経験はない。疎開している時に、赤穂の塩田が近くにあって、それをじっくり観察したことがあるが、その程度である。全くの素人だったのに、なぜか自信はあった。

泉州の海辺で妻と

構内には戦災を免れた古い建物が残っていて、それを工場や宿舎に利用した。薄い鉄板が放置されていたので、これを材料にして、自己流の製塩法を考えた。

泉大津の浜一面に、見渡す限り鉄板を並べた景色は壮観だった。鉄板は海側を高くし、陸地の側を低くした。日差しを浴びてやけどするくらい熱くなった鉄板の上に海水を流す。この作業を何度も繰り返すと、次第に塩分が濃縮される。最後に、たまった濃縮液を大釜(おおがま)に入れて煮詰めるとできあがりだ。普通の塩田より、このやり方の方が能率的だった。

しかし、最初は失敗の連続だった。露天だから、雨が降ると濃縮液が流されてしまう。ある時などは、電気がショートして付近一帯が停電し、電力会社から大目玉を食らった。これは後で、若者の一人がいたずらをして、配電盤にカニを突っ込んだためとわかった。

塩には少し色がついていたが、ともかく作ることには成功した。当時は塩は国の専売品ではなかったため勝手に作って売ることができた。ご近所や泉大津市民に配って大いに感謝された。余った塩は、ゴマや海苔(のり)を入れてふりかけにした。

また、漁船を2艘買い、沖合でイワシを捕った。魚群が、それこそいわし雲のようにわきあがった。私たちは、連日の豊漁にわいた。家内までが船に乗り、若者たちと一緒にはしゃいでいた。そんな姿を見るのは何年ぶりだろう。平和のありがたさが身に染みるようだった。

生きているイワシを、むしろの上に広げて乾燥させた。材料が新鮮なため、上等の干物になった。ほとんどはご近所に配ってよろこばれた。

動機、内容といい、企業活動とは言い難い。若者たちには、当時としては決して少なくない金額を支給した。給料ではなく奨学金のようなものである。募集するとたちまち百数十人が集まった。やっていることは社会奉仕に近かった。

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