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私の履歴書復刻版

即席めん人生――屋台の行列が道示す 苦労にめげず48歳の出発 日清食品創業者 安藤百福(1)

2014/3/24

1958年(昭和33年)の春、私は無一文からの再起を期して即席めんの開発に没頭していた。理事長をしていた信用組合が倒産して、すべての財産を失った直後だった。唯一の財産として残った大阪府池田市の自宅の裏庭に粗末な小屋を建て、そこを研究室にあてた。丸1年、試行錯誤を繰り返した末に、ようやく完成のめどが立ったのだった。玄関先の桜の木が満開で、私の心と同じように華やいで見えた。

執筆したころの筆者

私が開発していたのは、お湯をかけるだけですぐ食べられる、簡便性の高いラーメンだった。それも、工業化されて大量生産できる製品でなければならない。実現すれば、必ず世に受け入れられる。そんな確信があった。なぜ私が即席めんの開発にこだわったのか。その理由を説明しなければならない。

太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいいほうだった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は一面の焼け野原で、そこに闇市(やみいち)が立った。

冬の夜、偶然そこを通りかかると、2、30メートルの長い行列ができていた。1軒の屋台があって薄明かりの中に温かい湯気が上がっている。同行の人に聞くとラーメンの屋台だという。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っていた。一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか。ラーメンという食べ物に、初めて深い関心を持った。屋台の行列に、漠然とではあるが、大きな需要が暗示されているのを感じたのである。

さらにこんなことがあった。戦後の一時期、私は栄養食品の開発に取り組んでいた。仕事の関係で厚生省や農林省に出向くことが多かった。占領下、厚生省は米国の余剰小麦を使って、日本人に粉食を奨励することが仕事の一つだった。

学校給食をはじめとして、粉食といえばほとんどがパンやビスケットばかりというのが、私には不満だった。厚生省の栄養課長で、後に国立栄養研究所長になられた有本邦太郎さんに、私の考えを申し上げた。

「パン食はおかずがいるし、生活が洋風化してしまう。東洋には昔からめんの伝統がある。日本人が好むめん類をなぜ、粉食奨励に加えないのですか」

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