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私の履歴書復刻版

小型ラジオ――部品屋くどいて製作 全世界へ50万台以上売る ソニー創業者 井深大(14)

2012/5/31

 成長型トランジスターはさっぱり成長せず金をくうばかりで、なかなか使えるものが出てこない。私はこのころトランジスターに手を出したことはたいへんな失敗だったかと幾度も反省させられた。それでもやっとどうにか使えるものがたまに出てくるようになった。それを待ち構えていてラジオにつけて働いた、働かないで大騒ぎであった。

 歩どまり5%、つまり100個こしらえて及第するものが5個になったとき、ラジオの生産に踏み切った。前にも書いたように世界で2番目のトランジスターラジオの商品化はかくしてできあがったのだが、世界で2番になれるのは当然である。あたりまえの企業家だったらこんなむちゃな計画は立てるわけがない。しかし歩どまりは必ず向上する目算があったので私は思い切って決断したのである。

 もしあの時、アメリカでものになってからとか、欧州の様子をみてからこれに従ってなどと考えていたとしたら日本が年間500億円の輸出をするトランジスターラジオ王国になっていたかどうかははなはだ疑わしく、したがって今日のソニーもありえなかっただろうし、この無謀ははなはだ貴重な無謀だったと考えている。

 さて、見本のラジオができあがるとこの歩どまりでは相当高価なものになるし日本での販売よりは海外に売る方がよさそうだということで、盛田君はさっそく米国に飛んだ。したがってトランジスターラジオは生まれるときから輸出品になる運命を負っていたようだ。

 どこにもない物をつくるのだから、いくらでも売れてしまうのだったが、なにしろ遅々として上昇しない歩どまりとにらみ合いの生産で、思う存分売ったとはいえなかった。けれども私は後になって世界中にソニーが有名になったのは、こんな時代から売り込んだおかげだと思っている。

 次にトランジスターをいちばん生かすのはうんと小型なラジオをこしらえることだと思って小型化を企画した。最初は部品屋さんが全然相手にしてくれないのをやっと頼み回って、しぶしぶきいてくれたのが今日のミツミ電機とフォスター電機である。今日世界中で小さなラジオを製作するには大なり小なり日本の部品屋さんのご厄介にならなければならないのもこんなところに起因している。

 こうして63型と称したポケットへはいるラジオが世界で最初に生まれた。これも生まれるまでは社内でも大反対があった。大きなラジオでさえ1万7000円なので高くて国内販売はなかなかのびない。これを小さくしたらもっと金を取りにくくなるというのが営業の声だった。しかしこの63型はついに家庭のラジオから個人のラジオへの革命のいとぐちを作って全世界へ50万台以上も売れていった。これはもちろんラジオとしての世界記録だった。クリスマス・シーズンには米国へも空輸しなければならないぐらいになった。

 しかし、国内メーカーもだまっていたわけではなく、約1年半か2年ほどのギャップで追い付いて来た。かくて日本は世界最大のトランジスター生産国になったのはよいが、たちまち乱売が始まり、トランジスターラジオの安値競争は世界的に有名になって値段はどんどん下落した。新しいマーケットを開拓する努力をせず、他人の築いたマーケットにわり込み、ただ値段をくずすだけしか能がないという典型的日本商法をいやというほど知らされた。

 これを切り抜け、振り払うために、われわれは短波用、超短波用(FM用)トランジスターを開発しなければならなかった。おかげで世界最初のトランジスター短波受信機、FM受信機を出すことができ、これがトランジスターテレビにまで進展することになった。過当競争も日本にはよい刺激剤と考えるべきかもしれない。

 人がやったというニュースだけで日本では同じものがすぐにできるというふしぎな性質がある。これはそれを作るだけの技術力はじゅうぶん持っていながら、これを思い切って企業化しようという勇気にかけていることを証明しているようだ。すべての分野で日本の技術力に自信を持ち思い切った決断を下せるようになったときこそ真の日本の暁は訪れるだろう。

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 この連載は、昭和37年12月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第6巻」(日本経済新聞出版社)の「井深大」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年5月31日付]

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