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私の履歴書復刻版

祖父のこと――会津朱雀隊生き残り 早逝した父に代わる存在 ソニー創業者 井深大(1)

2012/4/9

栃木県上都賀郡日光町字清滝の古河鉱業日光製銅所の社宅で、井深甫(たすく)、同さわの長男として、明治41年4月11日に生まれたのが私である。父は新渡戸稲造先生の門下生で、札幌中学から蔵前高工(東京高等工業で東京工大の前身)の電気化学科に進んだ科学技術の素養がある人であった。学生時代に静岡県御殿場線の小山に洋書と首っぴきで設計した小さな水力発電所をつくった。これは日本としても最も古い発電所の一つであったと伝えられているが、私が3歳のときに若き生命を失った。

ソニー創業者の井深大氏

このへんで先祖のことについてふれておきたい。私の先祖は代々会津藩に仕えた藩士で、千石取りの士分であった。祖父の基(もとい)は藩主松平家で重きをなしていた“会津門閥九家”のうちの井深家の出である。祖父の弟で石山家に養子した虎之助は維新の戦いで飯盛山で討ち死にした白虎隊の一員である。祖父は当時19歳で白虎隊にはいる年齢を過ぎていたので、朱雀隊(18歳から35歳まで)で奮戦したが生き残り、若き藩主とともに斗南藩に移った。

そのころ明治の文明開化の波は全国に押し広がり、配所の月をながめていた祖父も自由に活躍できる日がやってきた。廃藩置県を機に開拓使に従って役人の地位を得、家族とともに北海道に渡った。北海道では知事の深野一三氏に重用されたが、深野氏が愛知県知事になったのを機会にいっしょに愛知県に行き、商工課長、郡長などを歴任して一生を終わった。

祖父は愛知県碧海郡の郡長時代に当時の金で2万円の資金を県からとって明治用水から水を引き、新田開発に力を注いだが、これがいまの高岡町である。36年の暮れに安城市長の石原一郎氏から次のような手紙をもらい、その翌年の正月に高岡町の方々が私をたずね上京してきた。その安城市長からの手紙に

「その後は益々御清栄喜ばしく存じます。本年の夏当市の七夕祭りの際は誠に御無理を申し上げ多額の御寄付を頂き厚く御礼申し上げます。実は私は安城市を中心とする一万数千町歩にわたる明治用水事務所の理事長をしています。たまたまその用水区域内の碧海郡高岡町駒場用水というのが御座いますが、その駒場用水開鑿(かいさく)に御骨折り願ったのが御祖父様の井深郡長さんでした。以来今日に至るまで地元農民が神様のように崇拝しており、特に御子孫の居所を捜し求めていましたが、私が御貴殿の住所を知らせましたので地元農民の喜びは一通りでなく、一度御目にかかりたいというので、来る正月10日ごろ上京、御訪問致しますので、よろしく御願い申し上げたいと存じます(以下略)」

と述べている。

すでに祖父が世を去ってから40年の月日がたったが、いまこうして祖父の徳をしたってわざわざ上京して来た農家の方々の姿に接し、心を打たれるものがあった。

祖父のために紙面をさいたのは、ほかでもない、父を早く失った私にとって祖父は父に代わる存在であり、私の人格形成のうえに多くの影響を与えたからである。

日光製銅所での生活は父の死で終止符を打った。母と私はそのころ愛知県に移っていた祖父のもとに引き取られ碧海郡安城町(現在の安城市)に移った。安城での生活は母にとっては決して住みよいところではなかったようだ。祖父はなにくれとなく母と私のめんどうをみたが、そのころ日本女子大学を出て、進んだ考えを持っていた若い母は、しゅうとの下で暮らすいなかの生活には耐えられなかったのだろう。愛知県に移って間もなく自活の道を求めて上京した。母は東京で母校日本女子大の付属幼稚園で先生をやり、母子水いらずの生活がこうして数年間続いた。私は母の勤め先である幼稚園から日本女子大付属小学校の1年2学期まで通った。

このころ報知新聞の記者をしていた野村胡堂氏が私の家の近くの小さな借家に住んでいたが、野村さんの奥さんと母が女学校時代からの友だちであったので、親類同様の親しい交際をしてきた。父のない私には野村さんが父のようにみえたこともあり、特に親しみを持っている。

>>第2回 小学生のころ――機械いじりが大好き

この連載は、昭和37年12月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第6巻」(日本経済新聞出版社)の「井深大」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

[日経Bizアカデミー2012年4月9日付]

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