少年使節派遣の思惑~布教する側・される側を融合若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」(3)

一橋大学大学院教授 楠木建氏

一橋大学大学院教授 楠木建氏

天正遣欧少年使節はヴァリニャーノの発案でした。グローバル化戦略の前線指揮官だった彼は、このプランを日本での布教を一層前進させるための決め手と位置づけていました。目的は3つ。1つは日本人にキリスト教の栄光と偉大さを見せ、それを日本人の口から日本人へと広めることで布教の原動力とすること。

一橋大学大学院教授 楠木建氏

もう一つはヨーロッパのカトリック国の王様や教皇に、日本への物質的・精神的支援を求めることでした。ヨーロッパの枢機卿や君主に生きている実際の日本人を見せる。これによって、ヴァリニャーノがさんざん報告書に書きつづった「日本人がいかにすぐれ、いかに有能であるか」が事実であることを証明する。そうすれば、日本で布教するための資金や人材をより多く、より幅広い層から獲得できるだろう、と彼は考えたのです。

これらに加えてもう一つ政治的な裏テーマがありました。教皇庁の威信回復です。考えられないくらい遠い国から、キリスト教に目覚めた位の高い人間(少年たちはいずれも大名の直系だった)がやってきて教皇に拝謁する。ローマカトリック教会の東方へのグローバル化が成功した証しとして世界にアピールできる。これがヴァリニャーノの戦略構想でした。

グローバル化「される側」としての日本人にとっては、実際に「行ってみなければわからない」のがキリスト教であり、西欧の文明でした。グローバル化「する側」のヨーロッパ人にとっては、実際に「連れてきて見せなければわからない」のが日本の文明でした。

少年使節をヨーロッパに送り出すプランは「融合」をコンセプトとするヴァリニャーノの戦略ストーリーの中で、一石で三鳥になるキラーパスの役割を担っていました。

天正遣欧少年使節をテコにして、カトリック教会こそ依然としてグローバル世界の中心であるということをヨーロッパ世界に知らしめる。それがヴァリニャーノのコンセプトだったのです。

ケーススタディー なぜ織田信長はキリスト教を受け入れたのか

イエズス会のグローバル化を迎え入れた日本側での主役が織田信長でした。日本側でキリスト教という異質な他者に向かい合うときの彼の姿勢は、この人がいかに破格のリーダーだったかを如実に物語っています。キリスト教宣教師の目を通してみた織田信長の思考と行動についての記述が本書のところどころに出てくるのですが、これが最高に面白い。 当時の日本にいた宣教師たちは、信長が格と桁が違うリーダーだということをきちんと見抜いていました。「信長は何人にも、一度として外国人にも恐れを抱かなかった。彼は秀吉や家康が当時日本に住んでいた外国人に心から恐怖を抱いていたのに反して、自分自身ならびにその祖国の実力について確固たる信念を持っていたからである」というのが、信長についての評価です。

ヨーロッパからとんでもなく進んだ文明を背負ったキリスト教が来ても、信長はまったくブレない。自己と日本の力について確信をもっていた信長は、はじめから「来るなら来い!」という姿勢で正面から外国人宣教師に向き合う。しかも、彼のキリスト教に対する構えは、徹頭徹尾リアリスティックでした。キリスト教くらいで日本という国はびくともしない、むしろいろいろ宗教があるのはいいことだ、というのが信長のスタンスでした。

彼の目的はあくまでも自分の力による「天下布武」にありました。これを達成するためには、仏教の専制的支配が崩れた方がよい。それによって複数の宗教が相対化されることになれば、自分の政治にとって大いに結構だという考えです。

本書に宣教師ルイス・フロイスが信長と最初に対面したシーンが描かれています。これがめったやたらと面白い。信長の超リアリストぶりがよくわかります。面会の場所はその頃信長が建設中だった二条城。自分の屋敷ではなく、7000人以上が働く工事現場での面会が信長の選択でした。信長は造成中の堀の上にかかった橋の上に立って、フロイスを待っていました。「日が当たるから帽子をかぶるように」とフロイスに命じたうえで、信長は屋外でフロイスと2時間以上話し込んだのです。

仏教けん制にキリスト教を活用

信長はフロイスに、何歳か、日本に来て何年になるのか、何年勉強をしたか、祖国に帰るつもりがあるのか、毎年ヨーロッパやインドから書簡を受け取るのか(定期的なコミュニケーションがあるのか)、ヨーロッパ、インドからの旅程はどれぐらいあるかといった、布教の段取りをとりつけたい一心のフロイスにとってはさほど重要とは思えない質問を矢継ぎ早に繰り出します。信長は相手の素性、教養、ポルトガルと日本との距離、航海技術、政治的なオーソリティーとの関係など、まず事実を確認しないと本題に入りません。

一通りの事実確認が終わった後、信長は「そんな遠い国から来たのはどういう動機か」とたずねます。フロイスは日本の人々に布教したいがためだと答えます。信長は、「ただそれだけのためにこれほど長い道のりを航海し、はなはだ大きな、考えるだけでも恐ろしい色々な危険を自ら進んで引き受けたのか」と重ねて問いました。フロイスはそのとおりだと答えます。ここで信長は喜びました。この神父が、仏教の相対化という自分のプランの中にうまく組み込めると判断したからです。

そもそも面会場所の設定が秀逸です。なぜ信長は建設現場の大勢の群集の中でフロイスに会ったのか。それは偵察に来た仏教の僧侶たちに対して、オープンな場所で強いメッセージを発するためでした。信長は群衆に紛れこんでいた僧侶たちを指さして、大声でこう言ったといいます。「そこにいるこの騙(かた)り者どもは、そなたのような輩ではない。彼らは庶民を誑(たぶら)かし、いかさま者、嘘つきで、尊大はなはだしく、思い上がった者どもだ」。フロイスを持ち上げることで、仏教の僧侶たちをけん制しています。さすがに戦国時代を勝ち抜いたリーダーだけあって、信長はやることがいちいち型破りです。

グローバル化成功の象徴としての少年使節団

話を天正遣欧少年使節団に戻します。彼らは1582年に日本を出発し、2年間かけてヨーロッパに到着、その後1年間もあちこちを訪問して、85年についにバチカンでグレゴリオ教皇と謁見します。ここが本書のクライマックスシーンです。

日本からの少年たちは、宗教改革に対抗するカトリック教会の勝利を証言する「東方からの三人の王」としてさん然と輝く存在でした(気の毒なことに、「東方三博士」のイメージを維持するため、中浦ジュリアンだけは体調不良を理由に謁見式に出してもらえなかったという)。

少年たちは「ローマにては未曽有の最大の行事のひとつであると確信できるほど豪華壮麗をきわめた儀式」で迎えられました。行列が喚起の声のなか、テヴェレ川に架かった聖天使城の前の華麗な橋を渡ろうとするとき、何百発もの祝砲が鳴り響きました。サン・ピエトロ大聖堂の前の道を抜けて大広場に出るとそこはローマの人々がもう立すいの余地もないほどにこの東方の使者たちを一目見んと群がっていました。

そしていよいよ教皇に謁見します。ローマのイエズス会所属の神父、ガスパール・ゴンサルヴェスが、教皇の前で「地球の周りをすべてまわらなければいけないほど遠く離れた国、日本からはるばるやってきた高貴な使節が、いま教皇のもとひざまずいている。これはわれわれが失ったものがいかに多くありましょうとも、それを補ってあまりあるものであります。かくて苦しみと涙は悦(よろこ)びに変わるのであります」といって、教皇を称賛しました。84歳の教皇グレゴリオは、歓喜のあまり「滝のように涙を流した」といいます。教皇にとって、苦難続きの人生の晩年で迎えた最良の瞬間でした。

この辺の天正遣欧少年使節を迎えたローマやヨーロッパの大興奮は、日本史の教科書的な知識しかなかった僕にとっては大きな驚きでした。宗教改革で追い詰められ、多くの信者の国を失ったローマ教会にとって、少年使節は反転巻き返しのグローバル化の成功の象徴であり、日本でのそれをはるかに凌駕(りょうが)するインパクトをもっていたのです。

楠木建(くすのき・けん)
一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授
専攻は競争戦略。1964年生まれ、東京都出身。92年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同大学同学部助教授、同大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授を経て、2010年から現職。 趣味は音楽(聴く、演奏する、踊る)。

この連載は日本経済新聞火曜朝刊「キャリアアップ面」と連動しています。

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クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

著者 : 若桑 みどり
出版 : 集英社
価格 : 1,015円 (税込み)

クアトロ・ラガッツィ 下―天正少年使節と世界帝国 (2) (集英社文庫 わ 13-2)

著者 : 若桑 みどり
出版 : 集英社
価格 : 929円 (税込み)

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