ネフェルティティとはどんな人物だったのか?

ネフェルティティの生涯に関しては、断片的な記録しか残されていない。いつ生まれ、いつ亡くなったのかも定かではない。エジプト王室の、無名の両親のもとで育ったということだけはわかっている。アメンホテプ4世の父親であるアメンホテプ3世の時代に誕生し、恵まれた幼少時代を過ごした。当時のエジプトは、豊かで安定していた。

ネフェルティティは10代の時に王位継承者だったアメンホテプ4世と結婚したとされているが、結婚時の年齢はそれよりもさらに若かったという学者もいる。アメンホテプ4世は、20代半ばないし30代前半に王位を継承し、在位4年目に、ネフェルティティが正妃となった。

ネフェルティティは、王妃としてエジプト史上どんな女性にもかなわなかった地位と名声を手に入れた。芸術の分野にも影響を与え、多くの絵画や彫刻、建造物に描かれた。エジプト学者のカラ・クーニー氏いわく、ファラオの「大巫女(みこ)、イデオロギーの女神」といった存在であったという。在位5年目以降に、アメンホテプ4世は宗教改革の一環として、アクエンアテンと改名し、さらにネフェルティティにも、「ネフェルネフェルアテン・ネフェルティティ」(「アテンの美しき者の美、美が訪れた」の意)という名を与えた。

宗教改革を成功させるため、アクエンアテンはネフェルティティを必要とした。ネフェルティティは、太陽神アテン崇拝において王と対等な地位にまで昇格し、彼女のための神殿まで建てられた。結婚して間もなく、2人の間には娘のメリタテンが誕生し、その後さらに5人の娘が生まれた。王女たちは、神聖な婚姻の結果アテン神の祝福を受けて生まれたと信じられ、宮廷芸術家たちの人気の題材となった。アテン神による祝福の陽光が王室一家の頭上に降り注ぐ様が描かれた芸術作品も残されている。

ファラオとネフェルティティが、3人の娘たちと遊ぶ様子を描いた紀元前14世紀のレリーフ。一家の頭上から、アテン神の光が降り注いでいる(ERICH LESSING/ALBUM)

アクエンアテンとネフェルティティの治世は、エジプトに多くの変革をもたらした。首都は、多神教と強く結びつけられていたテーベ(現代のルクソール)から、約400キロメートル北上したナイル川の東側の未開の地(現代のアマルナ)へ移された。王は、新しい町をアケトアテンと名付け、そこを一神教の中心地とした。

進化する美の基準

このアマルナ時代と呼ばれた紀元前1349~1336年に生まれた美術作品は、ネフェルティティが当時重要な存在だったことを物語っている。わずかな期間だったが、エジプトの伝統的な美の基準は根底から覆された。それ以前の人物画は、数千年にわたり守られてきた厳しい基準に従って、高度に様式化されていた。体は細く、平面的な2次元のスタイルで、顔と体は横向き、目と肩は前を向いていた。

1912年にルートヴィヒ・ボルヒャルトによって発見された、おそらく世界で最も有名なネフェルティティの胸像。ベルリンの新博物館所蔵(KENNETH GARRETT)
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王の死後